※本連載は、知財担当者が会計・ファイナンスを学んでいく過程を描いた架空の物語です。
「その特許は、将来いくら稼ぐのですか」
「御社の知的財産は、将来の収益や企業価値にどのようにつながっているのでしょうか」
機関投資家からそう尋ねられたとき、東洋テクノ株式会社の社長、大森哲夫は迷わず答えました。
「当社は、国内外に約400件の特許を保有しています。技術力には自信があります」
前日に確認した資料の数字です。
東洋テクノは、産業機器や機能性素材を開発・製造する上場企業です。国内市場が成熟するなかでも、毎年多額の研究開発費を投じ、新製品の開発を続けてきました。
大森自身も営業畑の出身です。自社製品が顧客から高く評価されていることは、よく分かっています。
しかし、投資家は大森の回答では納得しませんでした。
「件数ではなく、その知財がどの事業の競争優位を支え、将来どのようなキャッシュ・フローを生むのかを伺いたいのです」
大森は言葉に詰まりました。
少し前に読んだ経済誌には、「無形資産への投資が企業価値を左右する」と書かれていました。技術、人材、ブランド、知財を成長へつなげ、その関係を株主へ説明する必要があるらしい。そこまでは理解していました。
では、自社の400件の特許は、どのように会社の利益を生んでいるのか。そう聞かれると、答えを持っていませんでした。
「その点は、改めて整理してご説明します」
面談を終えた大森は、秘書に言いました。
「次の経営会議に、知財部長を呼んでくれ」
知財部が経営会議へ呼ばれた
数日後、知財部長の黒田達也は経営会議へ呼ばれました。
黒田は弁理士資格を持ち、入社以来、ほぼ一貫して知財業務を担当してきた人物です。重要技術の権利化、他社特許の調査、特許紛争の予防については、社内で黒田以上に詳しい者はいません。
知財部の高橋悠真も、説明資料を持って黒田に同行しました。
高橋は理工系大学院を修了後、材料開発部で4年間、製品開発に携わりました。知財部へ異動して2年目。発明者への聞き取りや先行技術調査には慣れてきましたが、経営会議へ出席するのは初めてです。
黒田は、知財部の活動を正確に報告しました。国内外の出願件数、登録率、重点技術分野ごとの保有件数、他社特許の調査件数、年間の特許関連費用。
説明を終えると、大森が尋ねました。
「それで、この特許が企業価値をどれだけ高めているんだ?」
黒田は一瞬、返答に詰まりました。
「企業価値といいますと、重要特許の比率や被引用件数をお示しするということでしょうか」
「違う。件数の説明はもういい」
大森は一冊の経済誌を机へ置きました。表紙には「無形資産経営」の文字が大きく載っています。
「株主から、知財が将来の収益にどうつながるのかと聞かれた。うちの知財が売上や利益、企業価値にどう貢献しているのか、数字で説明してくれ」
黒田は慎重に答えました。
「一つの製品にも、複数の特許が使われています。利益は特許だけでなく、製造ノウハウ、ブランド、設備、営業力などが組み合わさって生まれます。特許だけの貢献を切り分けるのは、簡単ではありません」
「簡単でないのは分かっている。だから知財部に頼んでいるんだ」
大森はさらに続けました。
「どの知財が、どの事業の競争力を支えているのか。その結果、売上や利益がどう変わるのか。投資家に説明できる成長ストーリーにしてくれ」
黒田が期限を尋ねると、大森は即答しました。
「次の経営会議まで。1か月で頼む」
高橋は隣で聞きながら思いました。社長は簡単に言うけれど、そもそも企業価値とは何なのだろう。おそらく社長自身も、よく分かっていない。だが、高橋も分かっていませんでした。
部長にも答えがない
知財部へ戻るエレベーターの中で、黒田は一言も話しませんでした。
席に戻ると、高橋を小会議室へ呼びました。
「高橋君。さっきの件だが、まず当社の重要特許を事業別に整理してくれ」
「それで企業価値への貢献が分かるんでしょうか」
「分からない。だから調べるんだ」
黒田は、珍しく苦笑しました。
「私は、特許の取り方や守り方なら分かる。しかし、企業価値と言われると、正直なところ自信がない」
高橋は驚きました。弁理士資格を持ち、知財一筋で歩んできた黒田でも分からないのです。
「僕も企業価値なんて分かりません」
「君は開発部にいた。少なくとも、特許が製品の中でどう使われているかは分かるだろう。そこから始めよう」
黒田は少し考え、言葉を加えました。
「ただし、特許を金額に直せば終わり、という話ではないはずだ。権利の範囲や代替技術、事業との関係を無視した数字なら、何の意味もない」
黒田も答えを知っているわけではありません。それでも、何を無視してはいけないかは知っていました。
48件の重要特許
高橋は、社内の特許管理システムからデータを取り出しました。事業別の保有件数、発明者、出願国、残存期間、被引用件数、社内評価、製品への使用状況。過去の資料も調べ、重要度の高い特許を色分けしました。
一週間後、高橋は「知財と企業価値の関係」と題した資料を黒田へ提出しました。
表紙をめくると、事業ごとの特許件数がグラフになっています。次のページには、重要特許の一覧。その次には、各特許の残存期間と被引用件数。高橋なりに、できることはすべて盛り込んだつもりでした。
黒田はA事業のページを開きました。
「A事業には、重要特許が48件ある」
「はい。全事業の中で最も多いです」
「この48件によって、会社はいくら儲かっているんだ?」
「それは……特許管理システムには入っていません」
「A事業の売上や利益は?」
「知財部の資料にはありません」
「では、この48件が売上を増やしているのか、利益率を守っているのか、それとも将来の事業を守るためのものなのかも分からない?」
高橋は答えられませんでした。
「この資料を社長へ持っていっても、また件数の説明だと言われるな」
高橋は悔しくなりました。
「でも、一つの製品には複数の特許が使われています。特許以外にもノウハウや設備、ブランド、営業力があります。特許だけの利益なんて、簡単には分けられません」
「そのとおりだと思う」
黒田は資料を閉じました。
「だが、『分けられません』で終われば、知財部は経営に説明できない部署のままだ」
それは高橋に対する注意であると同時に、黒田自身へ向けた言葉にも聞こえました。
「決算書を読めるだけでは、答えは出ないよ」
その日の昼休み、高橋は社員食堂で同期の森田美咲を見つけました。
森田は商学部出身で、入社以来、経理部に所属しています。新入社員研修の頃から、互いに遠慮なく話せる間柄です。
高橋は向かいの席へ座るなり言いました。
「森田、決算書の読み方を教えてくれないか」
森田は箸を止めました。
「ずいぶん急だね。知財部がどうして決算書?」
「社長から、特許が企業価値をどれだけ高めているか、数字で示せと言われた」
「それ、決算書を読めるだけでは答えは出ないよ」
いきなり出鼻をくじかれました。
「じゃあ、何を見れば分かる?」
「その前に、何を企業価値と呼んでいるのかを整理しないと。売上なのか、利益なのか、株価なのか、将来のキャッシュ・フローなのか」
高橋には、どれも会社が儲かっていることを表す、似たような数字に聞こえます。
「利益とキャッシュって、違うのか?」
森田は少し驚いた顔をしました。
「そこからか」
高橋は黙ってうなずきました。
森田は手元のノートを開き、会社の活動を簡単な表にしました。
| 段階 | 会社の活動 |
|---|---|
| 資金を集める | 株主や銀行から資金を集める |
| 投資する | 集めた資金を研究開発、設備、人材へ投じる |
| 製品を作る | 投資した技術、設備、人材を使って製品を作る |
| 販売する | 製品を顧客へ販売する |
| 代金を回収する | 顧客から販売代金を回収する |
| 次の事業へ投資する | 得られた資金を次の事業へ投じる |
「決算書には、会社が何にお金を使い、何を持ち、どれだけ売って、どれだけ利益を出したかが表れる」
「だったら、決算書を見れば、特許の価値も分かるんじゃないのか」
「分からないよ。決算書に『この特許が利益を10億円増やしました』とは書いていないから」
「じゃあ、決算書を見る意味がない?」
「逆じゃない?」
森田は、ノートに書いた「事業」と「数字」の間へ線を引きました。
「経理は、利益が増えたという結果を数字から追える。でも、その裏でどの技術や特許が効いたのかまでは分からない。それを知っているのは、開発や知財の人でしょう」
高橋は、森田が引いた一本の線を見つめました。
「決算書に書いていないからこそ、知財の情報と数字をつなげる必要があるんじゃない?」
400件の特許が、違って見えた
夕方、高橋のもとへ社長室からメールが届きました。件名は「知財と企業価値に関する説明資料について」。本文は一行だけです。
高橋は、特許一覧と会社の決算書を机の上に並べました。
決算書には、売上高、営業利益、総資産、自己資本、営業キャッシュ・フローといった数字が並んでいます。しかし、どこを探しても「特許の価値」という項目はありません。
高橋は森田へメッセージを送りました。
すぐに返信が来ました。
高橋は、もう一度、特許一覧を眺めました。
約400件の特許。昨日まで、それは会社の技術力を示す数字でした。
今は、その一件一件の向こう側に、製品、顧客、競合、売上、利益、そして将来の事業が隠れているように見えます。
高橋の宿題は、ようやく始まったばかりでした。
今回のポイント
- 特許件数と企業価値:出願件数や登録件数は知財活動の規模を示しますが、件数が多いほど売上、利益、企業価値も大きくなるとは限りません。
- 事業との関係:重要なのは、その知財がどの事業を支え、顧客に選ばれる理由や競争優位にどう結び付いているかです。
- 決算書の限界:決算書を読んでも、個々の特許が生み出した利益や、その特許自体の価値を直接確認できるわけではありません。
- 数字への影響:知財が事業へ与えた影響は、売上、利益率、必要な投資、事業リスク、将来キャッシュ・フローなどに表れる可能性があります。
- ファイナンスを学ぶ理由:知財担当者には、技術や知財が事業の数字へどう影響するかを考え、経営、経理、経営企画、事業部門と共通の言葉で話すための知識が必要です。
次回予告
第2話 利益と現金は、なぜ同じにならない?
高橋は森田から、貸借対照表、損益計算書、キャッシュ・フロー計算書のつながりを教わります。開発部時代に関わった新製品をたどると、研究開発、設備投資、製品販売、代金回収が、それぞれ異なる数字として表れることが分かってきます。