ストーリーで学ぶ 知財担当者のためのファイナンス

第1話/全15話

「知財で企業価値を高めろ」――社長から突然届いた宿題

連載トップへ

※本連載は、知財担当者が会計・ファイナンスを学んでいく過程を描いた架空の物語です。

「その特許は、将来いくら稼ぐのですか」

「御社の知的財産は、将来の収益や企業価値にどのようにつながっているのでしょうか」

機関投資家からそう尋ねられたとき、東洋テクノ株式会社の社長、大森哲夫は迷わず答えました。

「当社は、国内外に約400件の特許を保有しています。技術力には自信があります」

前日に確認した資料の数字です。

東洋テクノは、産業機器や機能性素材を開発・製造する上場企業です。国内市場が成熟するなかでも、毎年多額の研究開発費を投じ、新製品の開発を続けてきました。

大森自身も営業畑の出身です。自社製品が顧客から高く評価されていることは、よく分かっています。

しかし、投資家は大森の回答では納得しませんでした。

「件数ではなく、その知財がどの事業の競争優位を支え、将来どのようなキャッシュ・フローを生むのかを伺いたいのです」

大森は言葉に詰まりました。

少し前に読んだ経済誌には、「無形資産への投資が企業価値を左右する」と書かれていました。技術、人材、ブランド、知財を成長へつなげ、その関係を株主へ説明する必要があるらしい。そこまでは理解していました。

では、自社の400件の特許は、どのように会社の利益を生んでいるのか。そう聞かれると、答えを持っていませんでした。

「その点は、改めて整理してご説明します」

面談を終えた大森は、秘書に言いました。

「次の経営会議に、知財部長を呼んでくれ」

知財部が経営会議へ呼ばれた

数日後、知財部長の黒田達也は経営会議へ呼ばれました。

黒田は弁理士資格を持ち、入社以来、ほぼ一貫して知財業務を担当してきた人物です。重要技術の権利化、他社特許の調査、特許紛争の予防については、社内で黒田以上に詳しい者はいません。

知財部の高橋悠真も、説明資料を持って黒田に同行しました。

高橋は理工系大学院を修了後、材料開発部で4年間、製品開発に携わりました。知財部へ異動して2年目。発明者への聞き取りや先行技術調査には慣れてきましたが、経営会議へ出席するのは初めてです。

黒田は、知財部の活動を正確に報告しました。国内外の出願件数、登録率、重点技術分野ごとの保有件数、他社特許の調査件数、年間の特許関連費用。

説明を終えると、大森が尋ねました。

「それで、この特許が企業価値をどれだけ高めているんだ?」

黒田は一瞬、返答に詰まりました。

「企業価値といいますと、重要特許の比率や被引用件数をお示しするということでしょうか」

「違う。件数の説明はもういい」

大森は一冊の経済誌を机へ置きました。表紙には「無形資産経営」の文字が大きく載っています。

「株主から、知財が将来の収益にどうつながるのかと聞かれた。うちの知財が売上や利益、企業価値にどう貢献しているのか、数字で説明してくれ」

黒田は慎重に答えました。

「一つの製品にも、複数の特許が使われています。利益は特許だけでなく、製造ノウハウ、ブランド、設備、営業力などが組み合わさって生まれます。特許だけの貢献を切り分けるのは、簡単ではありません」

「簡単でないのは分かっている。だから知財部に頼んでいるんだ」

大森はさらに続けました。

「どの知財が、どの事業の競争力を支えているのか。その結果、売上や利益がどう変わるのか。投資家に説明できる成長ストーリーにしてくれ」

黒田が期限を尋ねると、大森は即答しました。

「次の経営会議まで。1か月で頼む」

高橋は隣で聞きながら思いました。社長は簡単に言うけれど、そもそも企業価値とは何なのだろう。おそらく社長自身も、よく分かっていない。だが、高橋も分かっていませんでした。

部長にも答えがない

知財部へ戻るエレベーターの中で、黒田は一言も話しませんでした。

席に戻ると、高橋を小会議室へ呼びました。

「高橋君。さっきの件だが、まず当社の重要特許を事業別に整理してくれ」

「それで企業価値への貢献が分かるんでしょうか」

「分からない。だから調べるんだ」

黒田は、珍しく苦笑しました。

「私は、特許の取り方や守り方なら分かる。しかし、企業価値と言われると、正直なところ自信がない」

高橋は驚きました。弁理士資格を持ち、知財一筋で歩んできた黒田でも分からないのです。

「僕も企業価値なんて分かりません」

「君は開発部にいた。少なくとも、特許が製品の中でどう使われているかは分かるだろう。そこから始めよう」

黒田は少し考え、言葉を加えました。

「ただし、特許を金額に直せば終わり、という話ではないはずだ。権利の範囲や代替技術、事業との関係を無視した数字なら、何の意味もない」

黒田も答えを知っているわけではありません。それでも、何を無視してはいけないかは知っていました。

48件の重要特許

高橋は、社内の特許管理システムからデータを取り出しました。事業別の保有件数、発明者、出願国、残存期間、被引用件数、社内評価、製品への使用状況。過去の資料も調べ、重要度の高い特許を色分けしました。

一週間後、高橋は「知財と企業価値の関係」と題した資料を黒田へ提出しました。

表紙をめくると、事業ごとの特許件数がグラフになっています。次のページには、重要特許の一覧。その次には、各特許の残存期間と被引用件数。高橋なりに、できることはすべて盛り込んだつもりでした。

黒田はA事業のページを開きました。

「A事業には、重要特許が48件ある」

「はい。全事業の中で最も多いです」

「この48件によって、会社はいくら儲かっているんだ?」

「それは……特許管理システムには入っていません」

「A事業の売上や利益は?」

「知財部の資料にはありません」

「では、この48件が売上を増やしているのか、利益率を守っているのか、それとも将来の事業を守るためのものなのかも分からない?」

高橋は答えられませんでした。

「この資料を社長へ持っていっても、また件数の説明だと言われるな」

高橋は悔しくなりました。

「でも、一つの製品には複数の特許が使われています。特許以外にもノウハウや設備、ブランド、営業力があります。特許だけの利益なんて、簡単には分けられません」

「そのとおりだと思う」

黒田は資料を閉じました。

「だが、『分けられません』で終われば、知財部は経営に説明できない部署のままだ」

それは高橋に対する注意であると同時に、黒田自身へ向けた言葉にも聞こえました。

「決算書を読めるだけでは、答えは出ないよ」

その日の昼休み、高橋は社員食堂で同期の森田美咲を見つけました。

森田は商学部出身で、入社以来、経理部に所属しています。新入社員研修の頃から、互いに遠慮なく話せる間柄です。

高橋は向かいの席へ座るなり言いました。

「森田、決算書の読み方を教えてくれないか」

森田は箸を止めました。

「ずいぶん急だね。知財部がどうして決算書?」

「社長から、特許が企業価値をどれだけ高めているか、数字で示せと言われた」

「それ、決算書を読めるだけでは答えは出ないよ」

いきなり出鼻をくじかれました。

「じゃあ、何を見れば分かる?」

「その前に、何を企業価値と呼んでいるのかを整理しないと。売上なのか、利益なのか、株価なのか、将来のキャッシュ・フローなのか」

高橋には、どれも会社が儲かっていることを表す、似たような数字に聞こえます。

「利益とキャッシュって、違うのか?」

森田は少し驚いた顔をしました。

「そこからか」

高橋は黙ってうなずきました。

森田は手元のノートを開き、会社の活動を簡単な表にしました。

段階 会社の活動
資金を集める 株主や銀行から資金を集める
投資する 集めた資金を研究開発、設備、人材へ投じる
製品を作る 投資した技術、設備、人材を使って製品を作る
販売する 製品を顧客へ販売する
代金を回収する 顧客から販売代金を回収する
次の事業へ投資する 得られた資金を次の事業へ投じる

「決算書には、会社が何にお金を使い、何を持ち、どれだけ売って、どれだけ利益を出したかが表れる」

「だったら、決算書を見れば、特許の価値も分かるんじゃないのか」

「分からないよ。決算書に『この特許が利益を10億円増やしました』とは書いていないから」

「じゃあ、決算書を見る意味がない?」

「逆じゃない?」

森田は、ノートに書いた「事業」と「数字」の間へ線を引きました。

「経理は、利益が増えたという結果を数字から追える。でも、その裏でどの技術や特許が効いたのかまでは分からない。それを知っているのは、開発や知財の人でしょう」

高橋は、森田が引いた一本の線を見つめました。

「決算書に書いていないからこそ、知財の情報と数字をつなげる必要があるんじゃない?」

400件の特許が、違って見えた

夕方、高橋のもとへ社長室からメールが届きました。件名は「知財と企業価値に関する説明資料について」。本文は一行だけです。

社長室からのメール

出願件数ではなく、事業と数字がどうつながるのかを示してください。

高橋は、特許一覧と会社の決算書を机の上に並べました。

決算書には、売上高、営業利益、総資産、自己資本、営業キャッシュ・フローといった数字が並んでいます。しかし、どこを探しても「特許の価値」という項目はありません。

高橋は森田へメッセージを送りました。

高橋から森田へのメッセージ

さっきの話、もう少し教えてほしい。まず、決算書のどこから見ればいい?

すぐに返信が来ました。

森田から高橋への返信

明日の昼休み。会社の数字がどうつながっているかから始めよう。

高橋は、もう一度、特許一覧を眺めました。

約400件の特許。昨日まで、それは会社の技術力を示す数字でした。

今は、その一件一件の向こう側に、製品、顧客、競合、売上、利益、そして将来の事業が隠れているように見えます。

この特許は、誰に選ばれる理由になっているのか。この特許がなければ、会社の利益はどう変わるのか。そもそも、会社の利益とは、どこを見れば分かるのか。

高橋の宿題は、ようやく始まったばかりでした。

今回のポイント

  • 特許件数と企業価値:出願件数や登録件数は知財活動の規模を示しますが、件数が多いほど売上、利益、企業価値も大きくなるとは限りません。
  • 事業との関係:重要なのは、その知財がどの事業を支え、顧客に選ばれる理由や競争優位にどう結び付いているかです。
  • 決算書の限界:決算書を読んでも、個々の特許が生み出した利益や、その特許自体の価値を直接確認できるわけではありません。
  • 数字への影響:知財が事業へ与えた影響は、売上、利益率、必要な投資、事業リスク、将来キャッシュ・フローなどに表れる可能性があります。
  • ファイナンスを学ぶ理由:知財担当者には、技術や知財が事業の数字へどう影響するかを考え、経営、経理、経営企画、事業部門と共通の言葉で話すための知識が必要です。

次回予告

第2話 利益と現金は、なぜ同じにならない?

高橋は森田から、貸借対照表、損益計算書、キャッシュ・フロー計算書のつながりを教わります。開発部時代に関わった新製品をたどると、研究開発、設備投資、製品販売、代金回収が、それぞれ異なる数字として表れることが分かってきます。

この連載を使った研修を行っています

知財担当者向け研修では、本記事を事前教材として使用し、架空事例または研修先企業の数字を使った演習とディスカッションを行います。