※本連載は、知財担当者が会計・ファイナンスを学んでいく過程を描いた架空の物語です。
「まず、決算書のどこから見ればいい?」
高橋悠真が森田美咲へそう尋ねた翌日、二人は昼休みに小会議室へ集まりました。
高橋が持ってきたのは、東洋テクノ株式会社の決算説明資料と、知財部で作成した重要特許の一覧です。
森田は経理部から持ってきた三つの資料を、机の上に並べました。
貸借対照表。
損益計算書。
キャッシュ・フロー計算書。
「昨日の続きだけど、決算書は一つずつ覚えるより、会社の活動とつなげて見た方が分かりやすいよ」
「会社の活動?」
「高橋が開発部にいた頃に担当した製品で考えてみようか」
森田が選んだのは、A事業で販売している高耐熱性の機能性素材でした。
高橋が開発部にいた頃、何度も試作と改良を繰り返した製品です。現在は産業機器の重要部品に採用され、A事業の売上を支えています。
その製品には、高橋自身が発明者に名を連ねる特許も使われていました。
利益が出る前に、現金は出ていく
森田は、製品を開発してから代金を回収するまでの流れを紙に書きました。
研究開発を行う。
製造設備を購入する。
原材料を仕入れる。
製品を製造する。
顧客へ販売する。
代金を回収する。
「製品が売れて代金が入るまでに、会社は先にいろいろなお金を使うでしょう」
高橋は、開発部にいた頃を思い出しました。
試験用の材料、外部への分析委託、試作設備、量産化のための製造ライン。製品が完成して売上が立つより前に、多くの現金が出ていました。
「研究開発や設備にお金を使って、原材料も仕入れる。製品が売れるまで、現金は出ていくばかりだな」
「そう。しかも、製品を販売した日に代金が入るとは限らない」
「東洋テクノの取引は、納品してから入金まで時間がかかるものが多かったはずだ」
「そこが、利益と現金が同じではない理由の一つだよ」
森田は、説明を簡単にするための数字を書きました。
ある製品を1億円で販売した。
その製品の原価は6,000万円だった。
販売代金の入金は3か月後だった。
「ほかの費用は考えないことにするね。この製品を販売した時点の利益はいくら?」
「売上が1億円で、原価が6,000万円なら、4,000万円」
「そう。でも、その日に1億円の現金が入るわけではない。入金が3か月後なら、それまでは売掛金として貸借対照表に載る」
「利益は4,000万円出ているのに、売上代金の1億円はまだ現金になっていないのか」
「うん。利益が出ていても、代金を回収するまでは、自由に使える現金が増えていないことがある」
高橋は、決算説明資料に載っている営業利益の数字を見ました。
利益が出ている会社に、同じ金額の現金があるとは限らない。
これまで同じようなものだと思っていた二つの数字が、初めて分かれて見えました。
在庫の中にも、まだ回収されていない現金がある
森田は、次に原材料と製品在庫の話を始めました。
「販売に備えて原材料を多めに仕入れたけれど、まだ製品として売れていない場合はどうなると思う?」
「仕入先に代金を払えば、現金は減る」
「そう。でも、期末に残っている原材料や製品は、すべてがその期の費用になるわけではない。在庫として貸借対照表に残る」
「現金は出ていったのに、損益計算書の費用にはまだ全部出てこない?」
「そのとおり。売上が伸びると予想して在庫を増やせば、利益が出ていても現金が減ることがある」
高橋は、量産開始直前の工場を思い出しました。
倉庫には、原材料と完成した製品が積み上げられていました。当時は、受注に備えて準備しているとしか考えていませんでした。
しかし、会社の数字から見れば、そこには製品を販売して回収する前の現金が留まっています。
「製品が倉庫にある間は、使ったお金がまだ現金として戻ってきていないんだな」
「そういう見方もできる。だから経理や経営企画は、売上や利益だけでなく、売掛金や在庫が増えすぎていないかも見るの」
設備投資では、現金と費用が違う時期に動く
「もう一つ、量産設備を5,000万円で購入して、すぐに代金を支払った場合を考えてみよう」
「現金は5,000万円減る」
「でも、その5,000万円の全額が、購入した年度の費用になるわけではない」
設備は何年も使用します。そのため、取得にかかった金額は、使用する期間に応じて減価償却費として配分されます。
説明を簡単にするため、毎年1,000万円ずつ費用にするとします。
設備を購入した年度には、現金が5,000万円減ります。
一方、その年度の損益計算書に計上される減価償却費は1,000万円です。
「現金は5,000万円減ったのに、その年の利益を減らす費用は1,000万円だけか」
「そう。反対に、次の年度には設備代金を支払っていなくても、減価償却費の1,000万円が計上される」
「だから、利益と現金が同じ動きにならない」
「売掛金、在庫、設備投資。まずはこの三つを押さえると、黒字なのに現金が増えない理由をイメージしやすいと思う」
高橋には、開発部時代に見ていた光景が、会社の数字へ置き換わっていくように感じられました。
試験に使った材料。
工場へ導入した設備。
倉庫に積まれた在庫。
顧客へ出荷した製品。
後日振り込まれる販売代金。
一つの製品を生み出す活動でも、利益と現金には異なる時期、異なる金額で表れます。
三つの決算書は、同じ会社を別の角度から見ている
高橋は、机に並んだ三つの資料を指しました。
「この三つは、どうつながっている?」
森田は損益計算書を開きました。
損益計算書は、一定期間の経営成績を示す
損益計算書には、一定期間の売上、費用、利益が記載されます。
会社が製品やサービスを提供して、どれだけの売上を計上し、そのためにどれだけの費用を負担し、最終的にどれだけの利益を残したかを見るための書類です。
「会社が、その期間にどれだけ儲けたかを見るものだね」
「これは分かりやすい」
「ただし、売上を計上した時期と入金の時期、費用を計上した時期と支払いの時期は、必ずしも同じではない」
貸借対照表は、ある時点の会社の状態を示す
貸借対照表には、決算日時点で会社が保有する資産、返済や支払いが必要な負債、株主に帰属する純資産が記載されます。
現金、売掛金、在庫、設備などは資産です。銀行からの借入金や取引先への未払金などは負債です。
「さっきの例なら、まだ回収していない販売代金は売掛金、まだ売れていない製品は在庫、購入した製造設備は固定資産として載る」
「損益計算書だけでは見えなかったものが、貸借対照表に残っているのか」
「そう。損益計算書が一定期間の成績なら、貸借対照表は決算日時点の会社の状態を写したものと考えると分かりやすい」
キャッシュ・フロー計算書は、現金が動いた理由を示す
キャッシュ・フロー計算書には、一定期間に現金がどのような理由で増減したかが記載されます。
通常の事業活動による現金の動きは、営業活動によるキャッシュ・フロー。設備の取得や売却などによる現金の動きは、投資活動によるキャッシュ・フロー。借入れや返済などによる現金の動きは、財務活動によるキャッシュ・フローに区分されます。
「利益が出ているのに現金が減っていたら、売掛金や在庫が増えたのか、設備投資をしたのか、借入金を返済したのかを見ていく」
「利益の数字だけでは分からない現金の動きを説明するのが、キャッシュ・フロー計算書なんだな」
「そう。ただし、三つは別々の会社を示しているわけじゃない。同じ会社の活動を、違う角度から見ているの」
特許権の金額は、特許の経済的な価値なのか
高橋は、貸借対照表の無形固定資産を見ました。
「特許権という項目はある。ここに載っている金額が、会社の特許の価値じゃないのか?」
「そうとは限らないよ」
森田は首を振りました。
「自社で技術を開発するために使った研究開発費は、原則として、その年度の費用になるの。特許権として資産に計上される場合も、権利の取得に直接かかった支出などを基礎にした帳簿上の金額だよ」
「じゃあ、東洋テクノが研究開発に使ってきた金額も、約400件の特許が今どれだけの利益を生むかも、この特許権の金額にはそのまま表れていない?」
「うん。決算書に載っている金額と、特許が現在持っている経済的な価値は、分けて考えないといけない」
「では、決算書を見ても特許の価値は分からないのか」
「決算書だけでは分からない。でも、決算書を見る意味がないわけではないよ」
森田は、A事業の売上と利益が記載された資料を指しました。
「経理は、A事業の売上や利益、投資した金額は追える。でも、その売上や利益を守るために、どの技術や特許が重要なのかまでは分からない」
「それを知っているのは、開発部や知財部か」
「そう。会社の数字と知財の情報を持ち寄らないと、知財が事業へどう貢献しているかは見えてこないんじゃない?」
第1話で森田が引いた「事業」と「数字」の間の線が、高橋の中で少し太くなりました。
高橋が作った一枚
知財部へ戻った高橋は、森田から教わった内容を一枚にまとめました。
A事業の活動と三つの決算書
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 会社の活動 | 資金を集める ↓ 研究開発、設備、人材へ投資する ↓ 製品を開発・製造する ↓ 顧客へ販売する ↓ 代金を回収する ↓ 次の事業へ投資する |
| 損益計算書 | 一定期間に、どれだけ売上を計上し、どれだけ費用を負担し、どれだけ利益を残したかを示す。 |
| 貸借対照表 | 決算日時点で、現金、売掛金、在庫、設備などの資産と、借入金などの負債をどれだけ持っているかを示す。 |
| キャッシュ・フロー計算書 | 一定期間に、営業、投資、財務の各活動によって、現金がどのように増減したかを示す。 |
| 利益と現金がずれる主な理由 | 製品を販売しても、代金をまだ回収していない。 原材料や製品が在庫として残っている。 設備を購入して現金を支払っている。 設備代金の支払いと減価償却費の計上時期が異なる。 |
高橋は、この一枚を黒田へ見せました。
黒田は、しばらく内容を読んでから言いました。
「A事業の製品が売れるまでに、会社が何へお金を使い、利益と現金がどう動くかは分かった」
「はい。特許も、この流れのどこかに関係しているはずです」
「では、当社の特許は貸借対照表にどう表れているんだ?」
「特許権という項目はあります。ただ、そこに載っている金額が、約400件の特許の経済的な価値を示しているわけではありません」
「これだけ研究開発にお金を使っているのに、その金額が特許の価値になるわけでもない?」
「ならないと思います。研究開発に使った金額と、完成した技術や特許が現在持っている価値は、分けて考える必要があるようです」
黒田は、A事業の重要特許一覧を見ました。
「では、3億円をかけて開発した技術と、3,000万円で開発した技術では、どちらの価値が高いんだ?」
高橋は答えられませんでした。
多くのお金を使った技術ほど、価値も高い。
これまでなら、何となくそう考えたかもしれません。
しかし、売れずに倉庫へ残った製品を思い出すと、使った金額だけで価値を判断できないことは分かります。
会社の利益と現金が同じではないように、技術を開発するために使った金額と、その技術が生み出す価値も、同じではないのかもしれません。
高橋の一枚に、次に調べるべき問いが加わりました。
今回のポイント
- 利益と現金:売上や費用を計上する時期と、現金を受け取り、または支払う時期は一致しないことがあります。
- 売掛金と在庫:利益が出ていても、販売代金が未回収であったり、原材料や製品が在庫として残ったりすれば、手元の現金が増えるとは限りません。
- 設備投資と減価償却:設備代金を支払う時期と、減価償却費を計上する時期は異なります。
- 三つの決算書:損益計算書は一定期間の経営成績、貸借対照表は決算日時点の状態、キャッシュ・フロー計算書は一定期間の現金の増減と理由を示します。
- 帳簿上の特許権:貸借対照表の特許権の金額は、研究開発への投資額や、特許が将来生み出す利益をそのまま示すものではありません。
- 知財の経済的価値:知財がどの製品や事業を支え、将来の売上、利益、キャッシュ・フローへどう影響するかを確認する必要があります。
次回予告
第3話 研究開発費を使った分だけ、技術の価値は上がるのか
東洋テクノは、毎年多額の研究開発費を使い、国内外に約400件の特許を保有しています。
しかし、研究開発に使った金額と、そこから生まれた技術や特許の経済的な価値は同じではありません。
高橋は、研究開発費、無形資産、原価と経済的価値、そして既に支出した金額を意思決定でどう考えるかを調べ始めます。