※本連載は、知財担当者が会計・ファイナンスを学んでいく過程を描いた架空の物語です。
「では、3億円をかけて開発した技術と、3,000万円で開発した技術では、どちらの価値が高いんだ?」
黒田部長からそう尋ねられた高橋悠真は、その場で答えられませんでした。
開発費に10倍の差があるなら、3億円をかけた技術の方が価値も高い。以前の高橋なら、そう考えたかもしれません。
しかし、前日に森田美咲から教わったばかりです。
決算書に載っている特許権の金額は、特許の経済的な価値そのものではありません。それなら、会社が研究開発に使った金額は、技術の価値を表すのでしょうか。
「二つの技術について、もう少し調べてみます」
高橋は黒田にそう答えました。
開発費が10倍なら、価値も10倍なのか
高橋が比較したのは、東洋テクノ株式会社が保有するA技術とB技術でした。
A技術は、耐熱素材の製造に使われています。基礎研究から量産化まで約7年を要し、累計の研究開発費は約3億円。関連する特許は12件あります。
B技術は、製品の表面加工に使われています。既存技術を応用して約1年で開発され、研究開発費は約3,000万円。関連する特許は3件です。
高橋は二つの技術を一枚にまとめました。
A技術。
研究開発費3億円。
開発期間約7年。
関連特許12件。
B技術。
研究開発費3,000万円。
開発期間約1年。
関連特許3件。
数字だけを見れば、A技術の方が大規模な研究開発の成果です。
「やはり、A技術の方が価値は高いのではないか」
そう考えながら、高橋は資料を森田のところへ持っていきました。
「開発費が10倍なら、技術の価値も10倍になると思うか?」
森田は資料を見てから答えました。
「その数字だけでは分からないと思う」
「3億円使ったという事実はある」
「投資した金額は分かる。でも、それは技術が現在持っている価値と同じなのかな」
高橋は、また二つの数字の間に線を引く必要があることに気づきました。
研究開発費は、なぜ資産として残らないのか
「研究開発費は、決算書ではどう処理されている?」
「日本の会計基準では、原則として、発生した年度の費用になるよ」
森田は、東洋テクノの損益計算書を開きました。
A技術に投じられた3億円は、7年間にわたり、研究員の人件費、試験材料、外部への分析委託費などとして計上されています。
しかし、現在の貸借対照表に、A技術が3億円の資産として載っているわけではありません。
「将来使える技術を開発しているのに、なぜ資産にしないんだ?」
「研究を始めた時点では、成功するか分からないでしょう。技術として完成するか、製品になって売れるか、将来どれだけの利益を生むかも確実ではない」
高橋には心当たりがありました。
有望だと思われていたのに、必要な性能を実現できなかった研究。技術的には成功しても、量産コストが高く、事業化されなかった開発。市場環境が変わり、途中で中止されたテーマ。
開発部にいた頃、そのような案件をいくつも見てきました。
「だから、研究開発費は原則として、その年度の費用になるのか」
「そう。ただし、決算書に資産として残っていないからといって、完成した技術に価値がないという意味ではないよ」
「帳簿に載っていないことと、価値がないことは違う」
「うん。反対に、多額の費用を使ったから、必ず高い価値があるとも言えない」
3億円は、何に使われたのか
高橋はA技術の開発記録を詳しく調べました。
開発当初に試した製造方法では、必要な品質を確保できず、途中で方針が変更されていました。
採用されなかった試作品。使われなかった材料。短期間で役割を終えた試験装置。製品化されなかった派生技術。
3億円の中には、現在のA技術へ直接つながらなかった支出も含まれています。
「全部が、今のA技術を完成させるために必要だったとは言えないな」
「研究開発では、試行錯誤そのものに意味がある場合もある。でも、手戻りが増えて開発費が大きくなったからといって、完成した技術の価値まで高くなるわけではないでしょう」
「効率が悪いほど価値が高くなるのは、おかしいか」
「同じ技術を、別の会社ならもっと短期間で開発できるかもしれない。今なら、当時より性能のよい装置や分析方法も使えるかもしれない」
3億円という数字が示しているのは、東洋テクノが過去に負担した金額です。
現在、同等の技術を作るために必要な金額とは限りません。まして、他社がその技術に対して支払う金額を示しているわけでもありません。
少ない費用で開発できた技術は、価値も低いのか
次に、高橋はB技術を調べました。
B技術は、別の製品で使われていた加工方法を応用して開発されています。既存の製造設備もほぼそのまま使えたため、開発費を抑えることができました。
一方、B技術を使った製品には複数の顧客から引き合いが来ています。量産化しやすく、ほかの製品にも展開できる可能性があります。
競合他社が同じ性能を実現するには、新しい製造設備が必要になることも分かりました。
「B技術は3,000万円しかかかっていない。でも、顧客が求めていて、ほかの製品にも使える」
「少ない費用で開発できたのは、過去の技術や設備をうまく活用したからでしょう」
「効率よく開発したことを理由に、価値まで低く考えるのはおかしいな」
高橋は、最初に作った比較表を見直しました。
開発費だけなら、A技術はB技術の10倍です。しかし、将来の製品や事業への貢献まで10倍であるとは限りません。
多くのお金を使ったから価値が高いとも、少ないお金で作ったから価値が低いとも言えないのです。
3億円使ったから、開発をやめられない
A技術の過去の会議資料を調べていた高橋は、気になる文章を見つけました。
「すでに多額の研究開発費を投じているため、開発を中止することはできない」
高橋には、その判断をした人の気持ちが分かりました。
「3億円も使った後では、途中でやめにくいよな」
「でも、3億円を使ったという事実は、開発を続けても変わらないよね」
森田が答えました。
「どういうことだ?」
「すでに支払い、開発を続けても中止しても戻ってこないお金は、これからの判断とは分けて考える必要があるの。埋没原価、サンクコストと呼ばれるものだね」
森田は簡単な数字を書きました。
ある技術の開発に、すでに3億円を使っている。
完成させるには、さらに1億円が必要になる。
完成後に得られる利益は、5,000万円と見込まれる。
「説明を簡単にした例だけど、3億円を無駄にしたくないという理由で、さらに1億円を使うべきかな」
「完成しても5,000万円しか得られないなら、追加の1億円を使うのは難しい」
「これからの判断で比較するのは、今後必要になる1億円と、今後得られる5,000万円。すでに使った3億円は、どちらを選んでも戻ってこない」
「過去の3億円に引っ張られると、損失をさらに大きくすることがあるのか」
「過去の投資を振り返ることには意味があるよ。でも、これから続けるかどうかは、これから必要になる支出と、これから得られる効果で考えないといけない」
高橋は、知財部で維持してきた特許を思い浮かべました。
出願や審査に多くの費用をかけたから。発明者が長い時間をかけて開発したから。苦労して権利化したから。
そのような過去の事情だけで、現在も保有する意味があると思い込んでいなかったでしょうか。
それでも、開発費を調べる意味はある
「それなら、技術を評価するときに、過去の開発費を調べる意味はないのか?」
「意味はあるよ」
森田は答えました。
「会社がどの技術へ、どれだけの資金や人員を投じてきたかが分かる。開発の規模や期間も把握できるし、その投資がどんな成果につながったかを考える出発点にもなる」
「同じ技術をもう一度作るとしたら、どれくらいの費用が必要かを考える材料にもなるな」
「そこは高橋の方が分かるでしょう。今の設備や技術を使えば、どれくらいの期間と人員で再現できるのか。別の方法で同じ機能を実現できるのか」
技術の評価方法の一つに、コスト・アプローチがあります。
対象となる技術を再現するために必要な費用や、同じ働きをする技術へ置き換えるために必要な費用を基礎とする方法です。
ただし、過去の研究開発費をそのまま合計すれば、評価額になるわけではありません。
過去の手戻りや失敗をどう扱うか。現在なら、より少ない費用で開発できないか。技術の陳腐化や代替技術をどう考えるか。
そして、事業化の可能性や将来の収益を合理的に検討できるのであれば、それらを無視して開発費だけで価値を決めることも適切ではありません。
「開発費は価値そのものではない。でも、価値を考えるための材料にはなる」
「そういうことだと思う」
森田が説明できるのは、研究開発費の会計処理と、過去の支出を意思決定でどう考えるかです。
その技術を現在ならどのように再現できるのか。特許によって何が守られているのか。代替技術には何があるのか。
それを判断するのは、高橋たち知財部の役割でした。
技術がこれから何を生み出すのか
知財部へ戻った高橋は、A技術とB技術の比較表に新しい項目を加えました。
どの製品に使われているか。
その製品は、どれだけ売れているか。
事業の利益にどう貢献しているか。
今後、市場は拡大するのか。
顧客がその製品を選ぶ理由になっているか。
他社の代替技術はあるか。
特許によって競争優位を守れるか。
ほかの製品へ展開できるか。
開発費の資料だけでは、どれも分かりません。
経理部の数字、事業部の販売情報、開発部の技術情報、そして知財部の権利情報をつなぐ必要があります。
高橋は、黒田へ調査結果を報告しました。
「3億円かけたA技術の方が、3,000万円で開発したB技術より価値が高いとは限りません」
「開発費は価値を示す数字ではないのか?」
「重要な情報ではあります。どれだけ投資したか、同等の技術を再び作るにはどれだけの費用が必要かを考える材料になります。ただ、過去に使った金額だけでは、現在の経済的な価値は決まりません」
「では、何を見ればいい?」
「その技術が、これからどの製品や事業を支え、売上や利益にどう貢献するのかを見る必要があります。市場や顧客、代替技術、特許による保護も確認しなければなりません」
高橋は、開発費以外に何を見ればよいのかを探すため、知財部で毎年作成している特許評価表を開きました。
評価表には、権利範囲、被引用数、残存期間、対象国、他社が回避する難しさなどが点数で示されています。
黒田が評価表を指しました。
「当社では、点数の高い特許を『強い特許』と呼んできた」
「はい」
「それなら、強い特許を持つ事業ほど、会社に大きな利益をもたらしていると考えていいのか?」
高橋は、特許評価表とA事業の損益資料を並べました。
開発費の次に、確かめるべき数字が見えてきました。
今回のポイント
- 研究開発費と価値:開発に多くのお金を使ったからといって、技術や特許の現在の価値が高いとは限りません。
- 開発過程の支出:研究開発費には、手戻りや採用されなかった試作など、現在の技術価値へ直接つながらない支出も含まれます。
- 帳簿に載らない価値:研究開発費が発生年度の費用として処理され、資産として計上されていなくても、技術に経済的価値がないとは限りません。
- 埋没原価:すでに支出し、どの選択をしても回収できない費用は、今後の研究開発を続ける理由にはなりません。
- 将来の意思決定:研究開発を継続するかどうかは、これから必要になる支出と、これから得られる効果を比較して判断します。
- 評価の材料:過去の開発費は、同等の技術を再構築・代替する費用や期間を考える材料にはなります。
- 経済的価値の確認:技術が将来の売上、利益、キャッシュ・フロー、競争優位へどう貢献するかも確認する必要があります。
次回予告
第4話 強い特許を持つ事業は、本当に儲かっているのか
東洋テクノの知財部は、権利範囲や被引用数などを基に、保有特許を評価してきました。
しかし、評価点の高い特許を持つことと、その特許を使う事業が利益を生み出すことは同じなのでしょうか。
高橋は、特許の強さと事業の売上、利益、投下資本の関係を調べ始めます。