※本連載は、知財担当者が会計・ファイナンスを学んでいく過程を描いた架空の物語です。
一件の特許から、会社全体の知財へ
高橋は黒田知財部長、A事業部の佐々木とともに、ライセンス契約の稟議を説明するため、社長室を訪れた。
「対象を産業機器の部品に限定し、相手企業へ独占的な利用を認めます。ただし、東洋テクノ自身の利用は残します」
高橋は、契約一時金、ランニングロイヤルティ、最低保証額などの条件を説明した。
佐々木は、相手企業との交渉状況と、契約がA事業へ与える影響を説明した。
社長は稟議書を確認すると、机の上へ置いた。
「分かった。この内容で進めてくれ」
高橋が資料を片付けようとすると、社長が続けた。
「ところで、前に頼んだ、知財で企業価値を高める方法の件はどうなった?」
高橋の手が止まった。
知財部が最初に社長から与えられた課題だった。
あれから、会計、企業価値、DCF、M&A、特許の評価、売却、ライセンスについて学んできた。
今回も、一件の特許について売却、ライセンス、保有継続を比較し、将来の利益とリスクを考えて取引条件を決めた。
しかし、それが東洋テクノ全体の企業価値にどうつながるのかは、まだ説明できる形になっていなかった。
「今回のライセンスで、収入は増えるんだろう」
「はい。相手企業の売上に応じて、ライセンス料を受け取ります」
「それは一件の特許の話だ。ほかの特許は、うちの会社の成長にどうつながっている?」
高橋は、すぐには答えられなかった。
保有特許の数、登録国、残存期間、自社製品への利用状況は分かる。
しかし、それぞれの特許が、どの事業を守り、どの事業を成長させるために存在するのかは整理していなかった。
「もう一度、事業計画と特許の関係を整理します」
高橋は、社長へそう答えた。
特許一覧を、事業計画から見直す
知財部へ戻った高橋は、特許一覧を見直した。
特許番号、発明の名称、登録国、残存期間、関係する製品。
権利を管理するための情報はそろっている。
しかし、その特許を何のために保有しているのかは書かれていない。
「この一覧では、会社の成長との関係を説明できません」
高橋が言うと、黒田はうなずいた。
「権利管理のために作った一覧だからな。経営判断に使うなら、別の見方が必要だ」
黒田は、特許一覧を見ながら言った。
「会社の成長との関係を整理するなら、事業計画と並べてみた方がいい。経営企画部にも確認しよう」
高橋は、経営企画部の神谷を訪ね、社長から求められたことを説明した。
「保有している特許が、どの事業を守り、どの事業の成長を支えるのかを整理したいんです。現在の事業計画を確認させてください」
神谷は、事業計画を高橋と一緒に確認した。
「既存製品の利益を維持しながら、新素材を使った製品を育て、海外売上を増やす。現在の計画では、この三つが中心です」
高橋は、神谷が示した事業計画と特許一覧を並べた。
北斗マテリアルのDDで、事業計画と特許を照合したときと同じ方法だった。
事業計画では、既存製品の利益を維持しながら、新素材を使った製品を育て、海外売上を増やす方針が示されていた。
高橋は、各事業部と研究開発部門へ確認した。
製品のどこが顧客から評価されているのか。
その強みを支えているのは、特許なのか、製造ノウハウなのか、試験データなのか。
今後成長させたい製品に、必要な知財はそろっているのか。
回答を整理すると、知財の役割は三つに分かれた。
一つ目は、既存製品の売上と利益を守る知財。
二つ目は、新製品や海外展開を支える知財。
三つ目は、自社で使わず、売却やライセンスによって外部収益を得る知財である。
売却とライセンスの条件を検討してきた特許は、三つ目に当たる。
ただし、会社全体の企業価値を考えるには、その一件だけでなく、事業を守る知財と成長させる知財も確認する必要があった。
多い特許と、足りない知財
事業計画と特許一覧を並べると、二つのずれが見つかった。
一つは、今後大きな成長を見込んでいない既存分野に、多くの特許が残っていることだった。
その中には、現在も主力製品を守っている特許がある。一方で、対象製品の販売が終了し、今後の利用予定が明確でない特許もあった。
現在使っていないからといって、直ちに不要とはいえない。
競合企業への牽制、将来の自社利用、売却やライセンスの可能性を確認したうえで、保有を続けるかを判断する必要がある。
もう一つは、今後成長させたい新素材製品に、必要な知財が十分にそろっていないことだった。
材料に関する特許は限られ、量産ノウハウの一部は確立していない。海外販売を予定する国の中には、関連特許を取得していない国もあった。
高橋は神谷へ説明した。
「当社は多くの特許を持っています。しかし、特許が多い分野と、今後成長させたい分野が一致していません」
「現在の特許一覧は、過去の研究開発の結果です。一方、事業計画は、会社がこれから進む方向を示している」
「はい。両方を並べなければ、将来必要になる知財が足りているかは分かりません」
不足する知財は、自社で開発するだけでなく、他社から購入する、ライセンスを受ける、共同研究を行う、M&Aで技術や人材ごと取得するという方法もある。
どの方法を選ぶかは、必要な時期、費用、成功する可能性、取得後に見込まれる収益によって変わる。
それは、知財部だけで決められることではなかった。
特許の数から、事業に必要な知財へ
高橋は、事業部と研究開発部門から確認した内容を表へ反映した。
| 方向性 | 必要な知財 | 現状 | 次の対応 |
|---|---|---|---|
| 既存製品の利益維持 | 特許、製造ノウハウ | おおむね確保 | 特許満了後の競争力を確認 |
| 新製品の成長 | 関連特許、試験データ、量産ノウハウ | 一部不足 | 自社開発・外部取得を検討 |
| 海外展開 | 国別特許、ノウハウ | 一部の国で特許未取得 | 国ごとに対応を検討 |
| 外部収益化 | 未利用特許、技術支援 | 候補あり | 売却・ライセンスを比較 |
以前の一覧は、会社が保有する権利を並べた資料だった。
新しい表は、会社が進もうとしている方向から、必要な知財と不足する知財を示している。
表がまとまると、高橋は黒田、神谷、佐々木とともに、社長へ再び説明した。
社長は表を見ながら尋ねた。
「新製品は、一部不足となっているな」
「新素材に関する特許と量産ノウハウが十分ではありません。自社で開発するのか、他社との共同研究やライセンスを利用するのかを、費用と時期を含めて検討する必要があります」
「海外展開は?」
「販売予定国の一部で、関連特許を取得していません。特許による保護が必要なのか、ノウハウや品質によって競争力を維持できるのかを、国ごとに確認します」
社長は表を最後まで読んだ。
「前の特許一覧より、何を考えなければならないかは分かりやすくなった」
高橋はうなずいた。
「知財で企業価値を高めるとは、特許の数を増やすことではなく、事業の成長と競争優位に必要な知財を確保し、活用することだと考えます」
「活用した結果は、どうやって確認する?」
「知財が、売上、利益率、新製品の成長、海外展開、事業リスクにどう関係したかを、事業計画の中で確認します。ただし、知財部だけで判断するのではありません。事業部、研究開発部門、経営企画部、経理・財務部門と一緒に確認する必要があります」
社長はうなずいた。
「それなら、この表を次年度の事業計画に使える形にしてくれ」
「分かりました」
高橋が作った表は、完成した知財戦略ではなかった。
東洋テクノが、全社で知財戦略を作り始めるための一枚だった。
今回のポイント
- 特許件数の限界:特許件数だけでは、知財と企業価値の関係を十分に説明できません。
- 事業計画との関係:特許は、事業計画と競争優位との関係から整理します。
- 知財の役割:既存事業を守る知財、成長事業を支える知財、外部収益を得る知財では、役割が異なります。
- 現在と将来:現在保有する特許と、将来の事業に必要な知財は一致するとは限りません。
- 知財の確保方法:不足する知財は、自社開発、購入、ライセンス、共同研究、M&Aなどによって確保できます。
- 部門間の連携:知財戦略は、経営、事業、研究開発、知財、経理・財務が連携して作ります。
- 企業価値への接続:必要な知財を確保・活用し、その効果を事業計画の中で確認する必要があります。
次回予告
第14話 知財部の成果を、何で測る?
事業計画と知財を一枚の表にまとめ、全社で知財戦略を作り始めるための出発点を示した高橋。
しかし、社長から新たな問いが投げかけられます。
「知財が事業に役立ったかどうかは、何を見れば分かるんだ?」
出願件数、登録特許件数、ライセンス収入、新製品の売上、利益率、競合企業の参入抑制。
知財活動の成果を、事業への貢献との関係から確認する方法を検討します。