ストーリーで学ぶ 知財担当者のためのファイナンス

第6話/全15話

買収価格は、どうやって決まるのか

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※本連載は、知財担当者が会計・ファイナンスを学んでいく過程を描いた架空の物語です。

50億円の会社を、35億円で買う?

北斗マテリアルのM&Aプロジェクトが始まってから、各部門による調査が進められていた。

事業部は製品、技術、市場、顧客、販売計画を確認し、法務部と人事部も、それぞれの担当分野を調べている。森田は財務デューデリジェンスの経理部側担当として、過去の決算書や勘定科目の内容を確認していた。

高橋も、北斗マテリアルが保有する約30件の特許について、権利者、存続期間、対象国などを整理していた。

その日の会議では、各部門が調査の途中経過を報告した。

一通りの報告が終わると、神谷が画面を切り替えた。

そこには、大きく二つの数字が表示されていた。

事業価値 50億円

株式取得価格 35億円

「現時点では、北斗マテリアルの事業価値を約50億円と評価しています」

神谷は画面を指した。

「一方、株式取得価格は35億円を一つの基準として、今後、売り手と交渉する予定です」

高橋は二つの数字を見比べた。

事業価値が50億円なのに、株主へ支払う金額は35億円。

同じ会社についての数字であるはずなのに、15億円の差がある。

50億円の会社を、35億円で買うということなのだろうか。

企業価値のすべてが株主のものではない

会議が終わった後、高橋は資料を持って森田のところへ行った。

「この二つの数字、どういう関係なんだ」

高橋は、事業価値50億円と株式取得価格35億円を指した。

「事業価値が50億円なら、どうして株主に支払う金額は35億円になるんだ?」

「企業価値のすべてが、株主に帰属するわけではないから」

森田は、資料の余白に数字を書いた。

事業価値 50億円

非事業資産 0億円

企業価値 50億円

有利子負債等 15億円

株式価値 35億円

「会社は、株主から集めた資金だけで事業をしているわけではないでしょう。銀行などから借りたお金も使って、設備投資や研究開発をしている」

「企業価値には、借入金で支えられている部分も含まれている?」

「今回の計算では、DCFで求めた事業価値が50億円です。説明を単純にするため非事業資産はないものとし、企業価値も50億円としています。そこから有利子負債等15億円を差し引いて、株主に帰属する株式価値を35億円と見積もっています」

事業価値50億円+非事業資産0億円=企業価値50億円
企業価値50億円-有利子負債等15億円=株式価値35億円

高橋は式を見直した。

「企業価値は会社全体の価値で、株式価値は、そのうち株主に帰属する部分ということか」

「大まかには、そう考えればいい」

「それで、株式価値35億円が、株式取得価格の基準になる」

「そう。ただし、株式価値と実際の株式取得価格も、必ず同じになるわけではないよ」

高橋は顔を上げた。

「まだ違う数字があるのか」

「評価によって求めた金額と、実際の取引で合意する価格は別だから」

四つの価値を分けて考える

森田は、四つの言葉を表に整理した。

項目 何を表すか
事業価値 会社が行っている事業そのものの価値
企業価値 事業価値に、事業に直接使われていない資産などを加えた会社全体の価値
株式価値 企業価値から有利子負債等を差し引いた、株主に帰属する価値
株式取得価格 株式価値の評価を参考に、交渉や取引条件を踏まえて実際に合意する価格

「最初の事業価値というのは?」

「北斗マテリアルが行っている事業そのものの価値。工場や設備だけではなくて、人材、技術、ノウハウ、顧客との関係、特許などを使って、将来どれだけの収益を生み出せるかを基礎に考える」

「特許も含まれているのか」

「特許一件ごとの価格を足すという意味ではないよ。特許や技術も利用しながら事業が収益を生み出す、その事業全体の価値を考えるということ」

会社が事業に直接使っていない資産などを持っていれば、それを事業価値に加えて企業価値を考える。そして、企業価値から有利子負債等を差し引くと、株主に帰属する株式価値になる。

その株式価値を一つの基準として、売り手と買い手が実際の株式取得価格を交渉する。

「事業価値、企業価値、株式価値、株式取得価格。同じ会社の値段でも、何を対象にしているかが違うんだな」

「そう。それに、企業価値や事業価値という言葉は、資料や実務家によって使い方が少し違うこともある」

「言葉だけでは判断できない?」

「その数字に何が含まれていて、何を差し引く前なのかを確認した方がいい。用語だけを見ていると、話がかみ合わなくなることがあるから」

35億円で決まるとは限らない

「でも、今回の株式価値は35億円なんだろう。それなら、35億円で買えばいいんじゃないか」

「相手がその価格で売るとは限らないでしょう」

森田に言われ、高橋は納得した。

株式価値35億円は、評価によって計算した金額である。最終的な株式取得価格は、売り手と買い手の交渉によって決まる。

売り手が40億円でなければ売らないと考えるかもしれない。

ほかにも買収を希望する会社があれば、価格が上がることもある。東洋テクノが北斗マテリアルを買収することで、ほかの会社にはない相乗効果を得られるなら、その効果を価格へ反映する場合もある。

一方、デューデリジェンスで問題が見つかれば、買い手が提示する価格を引き下げる可能性もある。

簿外債務が見つかる。

重要な契約が、買収によって解除される可能性がある。

中心となる技術者が退職する予定である。

主力製品に関係する特許の存続期間が短い。

必要な国で特許を取得していない。

こうした事実が見つかったとき、買い手は価格を見直すことがある。価格を変えず、契約条件によってリスクを分担する場合もある。問題が重大であれば、買収そのものを見送ることもある。

「だから、いろいろな部門が調査しているのか」

「そう。評価額を計算して終わりではないの。各部門が確認した事実を踏まえて、買収価格や契約条件を検討する必要がある」

知財部は価格を決めない。それでも価格と無関係ではない

高橋は、自分が調べた特許一覧を思い出した。

知財部に求められているのは、特許の内容と権利関係を正確に確認することである。製品、技術、市場、顧客、販売については事業部が確認し、事業計画と買収価格は経営企画部が検討する。

知財部が、自分たちだけで買収価格を計算するわけではない。

それでも、知財部が確認する事実は、価格と無関係ではなかった。

主力製品を保護していると考えられていた特許が、すでに失効していたらどうなるか。

重要な市場で権利を取得していなかったらどうなるか。

特許の名義が北斗マテリアルではなく、共同研究先や創業者個人になっていたらどうなるか。

買収後も利用できると思っていた技術について、必要なライセンス契約が終了する予定だったらどうなるか。

知財部が見つけた事実は、まず事業部が確認している製品や市場との関係で検討される。その結果、事業計画の前提を変更する必要があれば、経営企画部が企業価値や買収価格への影響を判断する。

知財上の問題が見つかったからといって、高橋がその場で「買収価格をいくら下げるべきか」を決めるわけではない。

知財部の役割は、その判断の出発点となる事実を明らかにすることだった。

「知財部は買収価格を決めない。でも、知財部が見つけた事実によって、買収価格の前提が変わることはあるんだな」

「そういうこと」

森田が答えた。

高橋は、第5話で神谷から言われた言葉を思い出した。

「知財部には、特許の内容と権利関係を正確に確認してもらえれば十分です」

あのときは、自分の仕事が企業価値や買収価格から切り離されているように感じた。

しかし、そうではなかった。

担当範囲は分かれていても、それぞれの調査結果は、最後には一つの買収判断へ集まっていく。

50億円は、どこから出てきたのか

翌日、高橋は神谷のところへ行った。

「一つ確認してもよろしいですか」

神谷はパソコンから目を上げた。

「何でしょう」

「事業価値50億円から有利子負債等を差し引いて、株式価値35億円になる関係は分かりました」

「それで?」

「最初の事業価値50億円は、どうやって計算したのでしょうか」

神谷は高橋を見た。

「北斗マテリアルから提出された事業計画を基礎に評価しています」

「事業計画ということは、将来の売上も使っているのですか」

「当然です。会社を買うのは、過去の利益を買うためではありません。買収後にその事業が生み出す収益を見込んで価格を検討します」

高橋は、画面に表示されていた50億円を思い出した。

その数字には、まだ実現していない将来の売上が含まれている。

「北斗マテリアルの事業計画は、何年先まで作られているのですか」

「5年間です」

「その5年後の売上は、どのように確かめるのでしょうか」

神谷は、少し間を置いた。

「それを検証するのが、このM&Aプロジェクトの重要な仕事です」

5年後の売上。

まだ存在しない売上が、現在の事業価値50億円を支えている。

その売上予測には、市場の成長、顧客との取引、製品の競争力、生産能力など、いくつもの前提が置かれているはずだった。

そして、製品の競争力を特許が支えているのであれば、知財部が調べている事実も、事業計画の確かさに関係する。

高橋は、ようやく次に確認すべきことが見えてきた。

事業価値50億円という答えを見るだけでは足りない。

その数字が、どのような将来の物語を前提としているのかを確かめる必要がある。

今回のポイント

  • 事業価値:会社が行っている事業そのものの価値を表します。
  • 企業価値:事業価値に、事業に直接使われていない資産などを加えた会社全体の価値を表します。
  • 株式価値:企業価値から有利子負債等を差し引いた、株主に帰属する価値です。
  • 評価額と取得価格:評価によって算定した株式価値と、交渉によって決まる株式取得価格は必ずしも一致しません。
  • DD結果の反映:デューデリジェンスで判明した事実は、買収価格、契約条件、買収実行の判断へ影響します。
  • 知財部の役割:知財部は買収価格を直接決めませんが、その前提となる知財上の事実を明らかにします。
  • 用語の確認:企業価値や事業価値は使い方が異なる場合があるため、数字に何が含まれているかを確認します。

次回予告

第7話 5年後の売上を、どう信じるのか

北斗マテリアルの事業価値50億円は、5年間の事業計画を基礎に評価されていました。

しかし、5年後の売上は、まだ実現していない数字です。

市場は本当に成長するのか。計画どおりに製品を販売できるのか。その売上を支える技術や特許は、買収後も競争力を維持できるのか。

高橋は、企業価値評価の基礎となる将来キャッシュ・フローと、事業計画の前提を検証する意味を学びます。

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知財担当者向け研修では、本記事を事前教材として使用し、架空事例または研修先企業の数字を使った演習とディスカッションを行います。