ストーリーで学ぶ 知財担当者のためのファイナンス

第5話/全15話

「特許だけ調べてください」

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※本連載は、知財担当者が会計・ファイナンスを学んでいく過程を描いた架空の物語です。

M&Aプロジェクトの始まり

午前中、黒田知財部長が高橋を呼んだ。

「経営企画部から、M&A案件への協力依頼が来ている。対象会社が保有する特許を確認してほしいそうだ」

「私が担当するのですか」

「ああ。社長から言われている企業価値の話にも、何か関係があるのかもしれん。君が行って話を聞いてきてくれ」

黒田は、高橋へ会議室の番号を伝えた。

「まだ社内でも限られた者しか知らない案件だ。資料は指定された場所で扱うこと。詳しい話は神谷さんから聞いてきてくれ」

「分かりました。行ってきます」

指定された会議室へ入ると、すでに何人もの社員が集まっていた。

正面では、経営企画部の神谷亮介が資料を準備している。そのほかにも、法務部、事業部、人事部の担当者が席に着き、スクリーンに映されたプロジェクト資料を確認していた。

高橋が空いている席を探していると、見慣れた人物が顔を上げた。

「あ、高橋」

「森田?」

二人は思わず顔を見合わせた。

「あなたもこのプロジェクトに入るの?」

「ああ。知財部長から、ここへ行ってこいと言われたんだ。森田も?」

「私は財務デューデリジェンスの経理部側担当。対象会社の決算書や借入金の資料を確認することになっているの」

「そうなんだ。知っている人がいて、少し安心したよ」

「それはこっちも同じ」

二人が席に着くと、神谷が会議を始めた。

「それでは、北斗マテリアルに関する初回ミーティングを始めます」

北斗マテリアルは、売上高約30億円の材料メーカーである。高温環境で使用する産業機器向けのコーティング技術に強みを持ち、国内だけでなく海外への展開も進めている。

スクリーンには、部門ごとに整理されたプロジェクト体制が表示された。

「今回の買収を検討するため、対象会社の財務状況、契約関係、製品と市場、人員、技術と知的財産を確認します」

神谷は、各部門の役割を説明した。

財務デューデリジェンスでは、決算書、借入金、運転資本などを確認する。法務部は重要な契約や係争関係を、事業部は主要な製品や技術、市場、顧客、販売計画を、人事部は人員構成や労務上の問題を調べる。知財部は、対象会社が保有する特許の内容と権利関係を確認する。

「まだ社内でも限られたメンバーしか知らない案件です。資料は指定された共有フォルダーと会議室で扱ってください」

会議室にいた全員がうなずいた。

高橋は、スクリーンに並んだ部門名を眺めた。

M&Aは、経営企画部だけで進めるものではなかった。一つの会社を買うために、これだけ多くの部門が、それぞれ異なる角度から対象会社を調べることになる。

会議が終わり、高橋も資料を閉じて立ち上がろうとしたところ、神谷に呼び止められた。

「高橋さん。知財調査の進め方について、少し確認しておきましょう」

神谷は、北斗マテリアルが保有する特許の一覧を画面に表示した。

「特許と出願中のものを合わせて約30件あります。どのような特許なのか、内容と権利関係を調べてください」

「分かりました」

神谷は、特許一覧を高橋へ渡した。

「まずは、この一覧を整理して報告してください」

丁寧な言い方ではあったが、神谷の説明はそれだけだった。

三十件の特許を整理する

高橋は、北斗マテリアルから開示された特許一覧を確認した。

国内特許、外国特許、出願中の発明を合わせて約30件。発明の名称、出願番号、登録番号、出願日、権利者、発明者、存続期間を一件ずつ整理する。

特許公報を読み、技術分野ごとに分類した。

  • 耐熱性を高める材料の組成
  • コーティング剤の製造方法
  • 製品表面への塗布方法
  • コーティング後の熱処理
  • 製品の耐久性を測定する方法

共同出願や共有特許の有無も調べた。権利者が北斗マテリアルになっているか、年金が納付されているか、権利が存続しているかも確認した。

数日後、高橋は調査結果を報告書にまとめた。

三十件すべてについて、内容と権利状況を一覧にしている。技術の系統も図に整理した。知財部の報告書としては、よくできているはずだった。

高橋は神谷へ説明した。

「基礎となる材料組成の特許が5件、製造方法が8件、塗布と熱処理が11件、検査方法などが6件です。現時点で、権利が消滅しているものはありません」

神谷は報告書を数枚めくると、表紙を閉じた。

「分かりました。特許の内容と権利関係は、これで把握できます」

高橋は、念のため付け加えた。

「内容と権利関係は整理できました。ただ、この資料だけでは、どの特許が売上や利益に関係しているのかまでは分かりませんでした」

「そこまで調べる必要はありません」

神谷は、報告書を机の上へ戻した。

「製品や技術、市場、顧客、販売については事業部が確認しています。事業計画と買収価格は経営企画部で検討します。知財部には、特許の内容と権利関係だけを整理してもらえれば結構です」

高橋は報告書へ目を落とした。

三十件の名称、権利者、存続期間、対象技術は整理できている。しかし、この会社が何によって利益を生み出しているのか、その利益を支えているのがどの特許なのかは、まだ見えていなかった。

「特許の内容だけで、本当に足りるのだろうか」

そう思ったが、高橋はその場では口にしなかった。

権利があれば安心なのか

知財部へ戻った高橋は、黒田部長に報告した。

「神谷さんから依頼された特許調査は終わりました。ただ、少し気になることがあります」

「何が気になるんだ」

「特許が三十件あることは分かりました。でも、どの特許が売上や利益につながっているのかは、調べなくてよいと言われました」

黒田は腕を組んだ。

「知財部への依頼は、権利関係の確認ということなんだろう」

「それは分かります。でも、会社を買うのであれば、特許があるかどうかだけでは足りないのではないでしょうか」

高橋は、第4話で佐々木事業部長から言われた言葉を思い出していた。

「その特許で、なんぼ儲けてるんや」

強い特許があっても、事業が利益を生んでいるとは限らない。反対に、事業の利益が特許だけによって生まれているとも限らない。

北斗マテリアルの三十件も同じだった。

件数を数え、権利の内容を確認しただけでは、買収後も利益を生み続けられるのかは分からない。

黒田はしばらく報告書を眺めてから言った。

「依頼された範囲の調査はできている。ただ、高橋が感じた疑問は残しておいた方がいい。まずは、開示されている資料の範囲で調べてみたらどうだ」

森田に聞く「デューデリジェンス」

数日後、高橋は、財務デューデリジェンスの作業を進めている森田に相談した。

「会社を買うときって、相手のことをどこまで調べるんだ」

「知財調査で何か気になることがあったの?」

「特許の内容だけ確認すればいいと言われた。でも、それだけで北斗マテリアルのことを調べたことになるのかな」

森田は少し考えてから答えた。

「デューデリジェンスは、契約する前に対象会社を詳しく調べる手続だけど、財務だけを見ればよいわけではないよ」

「初回の会議でも、いろいろな部門が参加していたね」

「そう。税務、法務、事業、人事、ITなど、案件によって調べる分野が違う。知財を調べるなら、知財デューデリジェンスと呼ぶこともあるね」

「特許があるかどうかを確認する調査?」

「それも必要だけど、それだけとは限らないと思う」

森田はノートに二つの欄を書いた。

一つ目は、買収後に問題が起きないかを確認する調査。

二つ目は、その会社を買う理由が本当に成り立つかを確認する調査。

「例えば、特許の権利者が本当に対象会社なのか、他社の権利を侵害していないか、重要なライセンス契約を買収後も続けられるか。こういうのは、買収を止めるようなリスクがないかを調べる話だよね」

「うん」

「でも、買収する理由が技術や特許にあるなら、その技術が事業計画どおりの売上や利益を生み出せるのかも重要じゃない?」

高橋はうなずいた。

「特許の有無を確認するだけでは、買う理由の方を確かめられないということか」

「そうだと思う。私は知財の中身までは分からないけどね」

二つの方向から知財を見る

高橋は、知財デューデリジェンスについて調べ始めた。

そこで、知財調査には大きく二つの方向があることに気づいた。

一つは、権利や契約に問題がないかを確認する方向である。

  • 特許の権利者は対象会社になっているか
  • 共同出願人や共有者はいないか
  • 権利は有効に存続しているか
  • 他社へ独占的なライセンスを与えていないか
  • 他社の特許を侵害するおそれはないか
  • 係争や警告を受けていないか
  • 発明者から権利を適切に承継しているか

これらは、買収後に思わぬ損失や事業停止が生じるリスクを確認するために必要である。

もう一つは、知財が事業の競争力や将来の収益にどう関係しているかを確認する方向である。

  • どの特許が主力製品に使われているか
  • その特許が競合他社の参入をどこまで防いでいるか
  • 代替技術は存在するか
  • 重要な市場や国で権利を取得しているか
  • 特許の残存期間は事業計画の期間と合っているか
  • 競争力の源泉が特許ではなくノウハウや人材にないか
  • 買収後も技術開発を継続できるか

権利が存在することと、その権利が将来の利益を支えることは同じではない。

高橋は、特許一覧をもう一度開いた。

今度は権利の内容だけでなく、北斗マテリアルの製品資料や公開されている事業情報と見比べた。

三十件すべてが同じ重さではない

調べていくと、いくつかの疑問が出てきた。

北斗マテリアルの主力製品に直接使われていると考えられる特許は、三十件のうち一部に限られていた。

基礎となる材料組成の特許は重要そうだったが、残存期間はそれほど長くない。

新しい改良特許は国内で出願されているものの、北斗マテリアルの事業計画が重視する海外市場では、十分な権利を取得していない可能性があった。

さらに、製品資料を読むと、顧客が評価しているのは特許化された材料の組成だけではなかった。

温度や湿度に応じて配合を細かく調整する製造条件、顧客の設備に合わせた塗布方法、不良を減らすための工程管理など、特許公報にすべてが記載されているわけではない。

公開されている製品資料や特許公報だけでは、こうした製造条件や工程管理が社内でどのように引き継がれているのかまでは分からなかった。特許に記載されていないノウハウが、特定の技術者の経験に依存している可能性もある。

「会社を買った後も、同じ品質で作り続けられるのだろうか」

高橋は、技術者の構成、製造手順書、ノウハウの管理状況も確認する必要があると考えた。

三十件という特許の数だけを見ても、こうした問題は分からなかった。

高橋が作った一枚

高橋は、調査の考え方を一枚の表にまとめた。

区分 確認する層 主な確認事項 M&Aの判断との関係
リスク 権利・契約 権利者、共有、存続状況、ライセンス、発明者からの承継 買収後に権利を使えないリスクを確認する
リスク 係争・管理 侵害、警告、訴訟、年金管理、営業秘密管理 損失や事業停止につながる問題を確認する
価値 事業での利用 主力製品との関係、使用状況、売上・利益への関与 何が現在の収益を支えているかを確認する
価値 競争力 権利範囲、代替技術、競合の回避可能性、海外権利 競争優位を維持できるかを確認する
価値 将来性 残存期間、次世代技術、研究開発体制、ノウハウ、人材 事業計画どおりに成長できるかを確認する
財務との接続 数字の前提 売上予測、利益率、投資額、継続期間、失敗リスク 買収価格や企業価値評価の前提を検討する

知財デューデリジェンスは、特許に値段を付ける作業そのものではない。

しかし、どの知財が利益を支え、その効果が何年続き、どのようなリスクがあるかを確認しなければ、事業計画や企業価値評価の前提も確かめられない。

高橋は、神谷へもう一度説明することにした。

「会社という箱」を買うのか

「神谷さん、追加で確認したい資料があります」

高橋が言うと、神谷はパソコンの画面から目を上げた。

「特許調査は終わったはずですが」

「依頼された範囲の調査は終わっています。ただ、公開資料と特許一覧を照合したところ、確認しておいた方がよい点が出てきました」

高橋は、自分が作った一枚の表を机に置いた。

「主力製品に直接関係する特許は、三十件のうち一部だと考えられます。基礎特許の残存期間も、それほど長くありません。また、海外展開を重視する事業計画に対して、海外での権利が十分かどうかも確認が必要です」

神谷は表に目を通した。

「それは知財上のリスクということですか」

「リスクだけではありません。主力製品の競争力が特許によるものなのか、製造ノウハウや技術者によるものなのかで、買収後の事業計画も変わります」

「事業計画はこちらで検討しています」

「でも、会社という箱ではなく、その会社が将来生み出す事業を買おうとしているのではないですか」

神谷の表情が少し変わった。

高橋は続けた。

「知財部が買収価格を決めたいわけではありません。ただ、どの技術が売上や利益を支えているのか、競争力がいつまで続くのかは、知財の内容を見なければ分からない部分があります」

会議室に短い沈黙が流れた。

神谷はもう一度、表へ目を落とした。

「分かりました。データルームに入れるようにします。製品別の売上、事業計画、主要契約、研究開発体制に関する資料を確認してください」

「ありがとうございます」

「ただし、評価や買収価格の検討はこちらで行います。高橋さんには、その前提になる知財上の事実を整理してもらいます」

神谷の態度が大きく変わったわけではない。

それでも、高橋の仕事は「三十件の特許の内容を整理すること」から、「事業計画の前提となる知財上の事実を確かめること」へ少し広がった。

データルームで見つかったこと

高橋は、データルームに保管されていた研究開発体制、製造手順書、技術者へのヒアリング記録を確認した。

そこで、高橋が感じていた懸念は現実のものになった。

顧客ごとの配合調整や、不良を減らすための工程管理の一部は、十分に文書化されていなかった。実際の判断は、製造部門に所属する二人のベテラン技術者の経験に大きく依存していた。

二人が持つ技術のすべてが、特許公報や製造手順書に記載されているわけではない。

特許の権利は、会社を買収すれば会社に残る。しかし、その二人が退職し、製造ノウハウを引き継げなければ、同じ品質や利益を維持できない可能性がある。

反対に、重要なノウハウが適切に整理され、次の世代へ引き継がれているなら、それは買収後の事業を支える力になる。

会社を買うときに確認すべき知財は、登録された特許だけではなかった。

権利の有無と、買う理由は違う

知財デューデリジェンスでは、対象会社がどのような権利を持っているかを確認することが出発点になる。

しかし、特許が存在するというだけで、その会社を買う理由が証明されるわけではない。

重要なのは、その特許やノウハウが、

  • 現在の製品やサービスに使われているか
  • 売上や利益にどのように関係しているか
  • 競合他社に対する優位性を生み出しているか
  • 事業計画の期間にわたって効果を維持できるか
  • 買収後も人材や組織とともに活用できるか

を確認することである。

知財部がM&Aに関わる意味は、特許一覧を作ることだけではない。

事業計画の中にある「なぜ売上が伸びるのか」「なぜ高い利益率を維持できるのか」「なぜ競合に追いつかれないのか」という前提を、技術と権利の両面から確かめることにある。

高橋は、北斗マテリアルの事業計画を初めて開いた。

資料の最終ページには、二つの数字が書かれていた。

事業価値 50億円

株式取得価格 35億円

「企業価値と株式取得価格は、なぜ違うんだ」

特許の内容を調べる仕事から始まったはずなのに、次の疑問は会社の値段そのものへ向かっていた。

今回のポイント

  • 知財DDの対象:特許の件数や権利状況だけでなく、その知財と事業との関係を確認します。
  • リスクの確認:権利、契約、係争など、買収後の事業継続を妨げる問題がないかを確認します。
  • 収益との関係:知財が事業の収益や競争力をどのように支えているかを確認します。
  • 特許と事業価値:特許が存在することと、その特許が高い事業価値を生み出すことは同じではありません。
  • 特許以外の知財:ノウハウ、技術者、研究開発体制、海外での権利なども、買収後の事業継続へ影響します。
  • 知財部の役割:知財部は買収価格を直接決めるのではなく、事業計画や企業価値評価の前提となる知財上の事実を明らかにします。

次回予告

第6話 買収価格は、どうやって決まるのか

北斗マテリアルの資料に記載された「事業価値50億円」と「株式取得価格35億円」。

なぜ、会社の価値と実際に株主へ支払う価格は同じではないのでしょうか。

次回は、企業価値、事業価値、株式価値、買収価格の違いを、高橋が森田と神谷から学びます。

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知財担当者向け研修では、本記事を事前教材として使用し、架空事例または研修先企業の数字を使った演習とディスカッションを行います。