※本連載は、知財担当者が会計・ファイナンスを学んでいく過程を描いた架空の物語です。
北斗マテリアルの事業計画では、5年目の売上高が45億円まで伸びることになっていた。
事業計画の売上前提を確認する過程で、高橋は、その売上を支える市場、販売数量、販売単価、技術、特許などの前提を確認した。
事業計画を最初から正しいと決めるのでも、将来の話だから信用できないと退けるのでもない。数字を前提に分け、確認できる事実を積み上げる。
高橋は、その考え方を少しずつ理解し始めていた。
一方、経営企画部がまとめた北斗マテリアルの事業価値は、50億円だった。
将来の売上が大きく伸びる計画なのに、なぜ事業価値はこの金額になるのか。
高橋には、まだ計算の仕組みが見えていなかった。
将来のキャッシュ・フローを足しても、事業価値にはならない
高橋は、経営企画部から共有されたDCFの計算表を見直した。
表には、北斗マテリアルが今後5年間に生み出すと予測されたフリーキャッシュ・フローが並んでいる。その下には、5年目より後の事業から生じる価値も記載されていた。
高橋は、各年度の金額を足してみた。
しかし、その合計は、計算表に記載された事業価値と一致しなかった。
高橋が資料を見ながら考えていると、財務DDを担当している森田が会議室へ入ってきた。
「まだ資料を見ているの?」
「将来のキャッシュ・フローを全部足せば、事業価値になると思っていたんだけど、計算が合わないんだ」
森田は計算表を確認した。
「将来のキャッシュ・フローは、そのまま足すのではなく、現在の価値へ直してから合計するんだよ」
「現在の価値へ直す?」
「今日受け取る1億円と、5年後に受け取る1億円は、同じ価値ではないということ」
高橋には、どちらも同じ1億円に思えた。
「今日1億円を受け取れば、すぐに設備投資や別の事業へ使えるでしょう。運用して収益を得ることもできる。でも、5年後まで受け取れなければ、その間は使えない」
将来受け取るお金には、受け取るまでの時間がある。
その時間を考慮すれば、将来の1億円の現在における価値は、1億円より小さくなる。
将来のキャッシュ・フローを現在の価値へ換算することを「割り引く」という。
5年後の1億円は、現在いくらなのか
森田は、仕組みを説明するため、単純な例を示した。
仮に割引率を年10%とした場合、将来受け取る1億円の現在価値は、受け取る時期によって次のように変わる。
| 受取時期 | 将来受け取る金額 | おおよその現在価値 |
|---|---|---|
| 1年後 | 1億円 | 約9,100万円 |
| 3年後 | 1億円 | 約7,500万円 |
| 5年後 | 1億円 | 約6,200万円 |
「同じ1億円でも、受け取る時期が遅くなるほど、現在価値は小さくなるんだ」
「だから、将来のキャッシュ・フローを単純に足してはいけないのか」
「そう。予測期間である5年間のフリーキャッシュ・フローだけでなく、5年目より後の事業から生じる残存価値も、現在価値へ割り引く」
高橋は、北斗マテリアルの事業計画を見直した。
新しい表面処理技術を使った製品が本格的に売れ始めるのは、3年目以降になっている。量産設備の導入や、顧客による採用試験に時間がかかるためだった。
「技術が完成していても、売上になるまで時間がかかれば、その分だけ現在価値は小さくなるの?」
「そういうこと。技術が完成していることと、すぐにキャッシュを生み出せることは同じではないから」
研究開発に成功した時点と、その技術を使った製品が販売され、顧客から代金を回収する時点との間には距離がある。
その距離が長くなるほど、同じ金額のキャッシュ・フローであっても、現在価値は小さくなる。
割引率は、銀行の金利ではない
高橋は、計算表に記載された数字を指した。
「この割引率10%というのは、銀行から借りるときの金利?」
「ここで使っている10%は、現在価値の仕組みを説明するために置いた数字だよ。実際の評価で使う割引率は、借入金利だけでは決まらない」
企業は、銀行などの債権者だけでなく、株主からも資金を提供してもらっている。
債権者は利息を求める。株主も、負担するリスクに見合った収益を期待する。
企業が事業のために使う資金には、こうした資金提供者が求める収益率がある。これを資本コストという。
DCFでは、株主が求める収益率と、債権者が求める収益率を、資金構成に応じて加重平均したWACCが、代表的な割引率として使われる。
高橋は、計算表に記載された「WACC」という文字を見た。
これまでは数式の一部として読み飛ばしていた。
しかし、その数字は、北斗マテリアルの将来キャッシュ・フローを、現在の事業価値へ換算するための重要な前提だった。
「実際にどの割引率を使うかは、誰が決めるの?」
「経営企画部などが、評価する事業の内容やリスク、資金調達の状況を踏まえて検討する。知財部や私が決めるものではないよ」
買い手の信用力で、事業のリスクは消えない
森田は、計算表を見ながら続けた。
「もう一つ、買い手の会社と、評価する事業のリスクは分けて考える必要があるよ」
「どういうこと?」
「買い手の会社に信用力があり、資金を調達しやすかったとしても、買収対象となる事業の不確実性まで自動的に小さくなるわけではないということ」
すでに安定した顧客基盤を持ち、継続的に収益を得ている事業と、量産化の途中にあり、顧客に採用されるかどうかがまだ確定していない事業では、将来キャッシュ・フローの不確実性が異なる。
不確実性が高い事業へ資金を提供する投資家は、それに見合った収益率を求める。
割引率が高くなれば、同じ将来キャッシュ・フローであっても現在価値は小さくなる。
評価対象となる事業のキャッシュ・フローを割り引く以上、基本的には、その事業のリスクに対応した割引率を検討する必要がある。
買い手の信用力だけを理由として低い割引率を使えば、買収対象の価値を過大に評価する可能性がある。
高橋は、買い手の会社が大きいというだけで、買収対象事業のリスクがなくなるわけではないことを理解した。
技術がよければ、リスクは低いのか
高橋は、北斗マテリアルの技術資料へ視線を戻した。
「この表面処理技術は、高く評価されているんだよね。それでも事業にはリスクがあるの?」
「技術的な評価が高いことと、計画どおりにキャッシュ・フローが生まれることは別なんだ」
森田は資料を見ながら説明した。
技術が優れていても、それだけで売上が生じるわけではない。
量産できるのか。
必要な品質を安定して維持できるのか。
顧客の採用試験を通過できるのか。
予定した価格で販売できるのか。
競合企業が代替技術を開発しないか。
事業化までに追加の研究開発や新しい製造設備が必要なら、売上が生じる前に資金が出ていく。
「技術がよいことは、価値を生み出すための重要な条件だよ。でも、それだけで事業価値が決まるわけではない」
高橋は、自社の事業と特許の関係を調べたときに考えたことを思い出した。
強い特許を持っていることと、その事業が高い収益を上げていることは同じではない。
今回は、さらにその先だった。
優れた技術が将来大きな収益を生むとしても、収益が生じるまでに時間がかかり、多額の投資を必要とし、実現に不確実性があれば、現在の事業価値は高橋が期待したほど大きくならないことがある。
売上が伸びれば、必ず価値も上がるのか
高橋は、5年目の売上高45億円という数字を指した。
「売上がここまで伸びる計画なら、その分だけ事業価値も上がるの?」
「売上だけでは判断できないよ」
森田は、売上計画の隣にある設備投資と運転資金の予測を示した。
新しい製品を多く生産するためには、製造設備が必要になる。
原材料や仕掛品、在庫も増える。
販売してから代金を回収するまでの資金も必要になる。
利益が増えても、そのために多額の資金を追加投入しなければならない場合、自由に使えるキャッシュが同じように増えるとは限らない。
「成長によって得られる利益と、その成長に必要な投資を、両方見る必要があるんだ」
事業へ投じた資金に対して、どれだけの利益を生み出したかを示すのがROICである。
その事業に資金を提供する側が求める収益率がWACCである。
ROICがWACCを上回る成長であれば、一般に企業価値の増加につながる。
反対に、資本コストに見合う利益を得られないまま投資だけを増やせば、売上が成長しても価値を生み出したとは限らない。
「売上が増えれば、必ず価値が上がるわけではないんだね」
「どれだけ売上が伸びるかだけでなく、その成長のためにいくら投資し、そこからどれだけの利益とキャッシュを得られるかを見る必要がある」
高橋は、自社で比較した二つの事業を思い出した。
売上高や保有特許数だけでは、どちらの事業が価値を生み出しているのかは分からなかった。
DCFでも同じだった。
売上成長率だけでなく、その売上から生じる利益、必要となる投資、キャッシュが生じる時期まで確認しなければならない。
リスクを、どこへ反映するのか
高橋は、北斗マテリアルの事業化に関する不確実性をまとめたメモを森田に見せた。
「量産化が遅れる可能性も、顧客に採用されない可能性も、全部割引率へ入れるの?」
森田はメモを読んだ。
「何でも割引率へ入れればよいわけではないと思うよ」
「では、どこへ入れるの?」
「例えば、製品の発売が1年遅れる可能性が高いと分かったなら、売上の開始時期を遅らせた事業計画を作る方法があるでしょう。追加の設備が必要なら、設備投資をキャッシュ・フローへ入れる。販売数量に幅があるなら、複数のケースを作って比べることもできる」
将来の不確実性には、キャッシュ・フローの金額や発生時期へ具体的に反映できるものがある。
一方、事業全体に共通する不確実性は、割引率の検討にも関係する。
重要なのは、何のリスクを、どのような理由で、どこへ反映したのかを明らかにすることだった。
「同じリスクを、事業計画と割引率の両方へ重ねて入れていないかは、確認した方がいいと思う」
森田の言葉に、高橋はうなずいた。
「発売が遅れる可能性を売上計画へ反映したうえで、同じ理由によって割引率も大きく上げたら、同じリスクで二重に価値を下げることになるのか」
「その可能性がある。反対に、事業計画にも割引率にも入っていなければ、そのリスクを見落としていることになる」
割引率の数字だけを見るのではない。
何が起こる可能性があり、それが売上、費用、投資、時期、継続期間のどこへ影響するのかを考える。
そのうえで、キャッシュ・フローの予測と割引率を整合させる必要がある。
一つの評価結果だけを見ない
翌日、神谷はプロジェクトメンバーに、経営企画部がまとめた北斗マテリアルの事業計画と評価結果を提示した。
資料には、一つの評価結果だけではなく、複数のケースが示されていた。
基準となるケースでは、新製品の販売が3年目から本格化する。
順調に進むケースでは、顧客の採用試験と量産化が予定より早く進む。
慎重に見るケースでは、採用試験が長引き、売上の開始が遅れ、設備投資も増加する。
「この三つは、何を比べているのですか」
高橋が尋ねた。
神谷が答えた。
「将来の事業について異なる前提を置いた場合に、キャッシュ・フローと評価結果がどのように変わるかを比較しています。これがシナリオ分析です」
さらに別の資料には、将来キャッシュ・フローを変えず、割引率や残存価値の前提を変えた場合の評価結果が並んでいた。
「こちらは感応度分析です。割引率や成長率など、特定の前提を動かしたときに、評価結果がどの程度変わるかを確認しています」
一つの評価結果だけを見るのではなく、どの前提が評価結果を大きく動かすのかを確認する。
それが、シナリオ分析や感応度分析を行う意味だった。
高橋が作った一枚――技術と事業価値の間にあるもの
高橋は、知財・技術に関する事実が、事業計画とDCFのどこへ影響するのかを一枚に整理した。
| 知財・技術に関する事実 | 事業計画への影響 | DCFへの主な影響 |
|---|---|---|
| 製品化まで時間がかかる | 売上開始が遅れる | キャッシュ・フローの発生時期 |
| 追加開発が必要 | 研究開発費が増える | 将来キャッシュ・フローの減少 |
| 新しい設備が必要 | 設備投資が増える | 将来キャッシュ・フローの減少 |
| 権利の残存期間が短い | 優位性を維持できる期間が短くなる | 成長期間・残存価値 |
| 海外で権利が不足する | 海外売上の実現可能性が下がる | 売上シナリオ |
| 代替技術が存在する | 価格やシェアを維持しにくい | 利益率・成長率・リスク |
| 技術者やノウハウに依存する | 技術承継に不確実性が生じる | シナリオ・リスク評価 |
知財部がWACCを決めるわけではない。
市場の成長率や販売数量を決めるわけでもない。
事業価値の評価結果を決定するわけでもない。
しかし、権利の残存期間、対象国、代替技術、製品化の状況、ノウハウへの依存など、知財部が確認する事実は、将来キャッシュ・フローの金額、発生時期、継続期間、不確実性に関係する。
高橋は、経営企画部から共有されたDCFの計算表をもう一度見た。
これまでは、財務の数字だけが並んだ資料に見えていた。
今は、その数字の背後に、製品、顧客、設備、技術者、ノウハウ、そして特許があることが分かる。
技術が優れているだけでは、事業価値は決まらない。
その技術が、いつ事業へ使われ、いつからキャッシュを生み、どのくらいの期間競争力を維持できるのか。
収益を得るまでに、どれだけの追加投資が必要なのか。
そして、計画を実現できる確実性がどの程度あるのか。
それらが、技術と事業価値の間にある。
今回求めているのは、北斗マテリアルの事業価値である。約30件の特許へ、それぞれ直接値札を付けているわけではない。
しかし、知財調査で確認される事実は、事業価値を計算する前提を動かす可能性がある。
高橋は、事業計画の前提と特許一覧を並べ、改めて一件ずつ確認を始めた。
今回のポイント
- DCFと現在価値:DCF法は、将来のフリーキャッシュ・フローと予測期間後の残存価値を、現在価値へ換算して事業価値を求める方法です。
- 時間と割引率:将来受け取るお金は、受取時期が遅いほど、また割引率が高いほど、現在価値が小さくなります。
- WACC:WACCは、株主と債権者が求める収益率を、資金構成に応じて加重平均した資本コストです。
- 技術と事業リスク:技術的に優れていても、事業化の遅れや追加投資によって、収益の実現可能性や現在価値が低くなることがあります。
- 売上成長と価値創造:売上が成長しても、必要な投資と資本コストを上回る利益を得られなければ、必ずしも価値創造にはなりません。
- リスクの反映:リスクは事業計画、シナリオ、割引率で検討しますが、同じリスクを重複して反映しないよう注意します。
- 知財部の役割:知財部は事業価値や割引率を決めませんが、権利の残存期間、対象国、代替技術、製品化、ノウハウ依存などの事実を提供します。
次回予告
第9話 特許の問題でDCFが変わった
北斗マテリアルの約30件の特許を確認していた高橋は、事業計画の前提と照合すべき点に気づきます。
海外売上を支える特許の対象国、競争力を維持するとされる期間と特許の残存期間、対象製品と権利範囲の関係。
知財調査で確認された事実は、事業計画の売上開始時期、販売地域、競争力を維持できる期間、将来キャッシュ・フローへどのように反映されるのでしょうか。
「特許だけを調べる」仕事が、事業価値の計算を動かし始めます。