※本連載は、知財担当者が会計・ファイナンスを学んでいく過程を描いた架空の物語です。
北斗マテリアルの事業価値は、50億円。
前回の会議で、神谷が示したDCFの計算結果である。
高橋は、その数字がどのように計算されたのかを学んだ。将来のフリーキャッシュ・フロー、収益が生じる時期、成長に必要な投資、割引率、予測期間後の残存価値。
計算式の意味は、少しずつ分かってきた。
だが、計算が正しくても、そこへ入れる事業計画の前提が現実と違っていれば、算出される価値も変わってしまう。
高橋は、知財・技術と事業価値の関係を整理した一枚を机に置いた。
権利の残存期間、対象国、代替技術、製品化の状況、ノウハウへの依存。
知財部が確認するこれらの事実は、将来キャッシュ・フローの金額、発生時期、継続期間、不確実性に関係する。
高橋は、北斗マテリアルが保有する約30件の特許と事業計画を、一件ずつ照合し始めた。
海外で売る製品を、どの国の特許が守っているのか
北斗マテリアルの事業計画では、新製品の販売が3年目から本格化することになっていた。
まず国内で販売し、その後、北米と欧州へ展開する。5年目には売上高45億円まで成長し、その後も海外売上が拡大する計画である。
高橋は、海外で販売する製品に使われる技術を確認し、対応する特許を調べた。
中心となる製造技術について、日本では特許が登録されている。
一方、北米と欧州では、評価時点で登録を確認できる特許が限られていた。出願中のものもあるが、計画しているすべての販売地域で、日本と同じ範囲の権利が成立しているわけではない。
海外に特許がないからといって、その国で製品を販売できないわけではない。
自社が特許を持っていないことと、他社の特許を侵害することも別の問題である。
しかし、自社の技術を特許によって十分に保護できなければ、競合企業による模倣や類似製品の参入を防ぎにくくなる。
北斗マテリアルの事業計画では、海外でも国内と同じ水準の販売価格と利益率を維持することになっていた。
その前提に、根拠はあるのだろうか。
高橋は、海外売上の欄に印を付けた。
事業計画の途中で、重要特許が満了する
次に、高橋は特許の残存期間を確認した。
北斗マテリアルの事業を支えると説明されている基礎技術の特許は、事業計画の4年目に満了する。
周辺には複数の改良特許がある。ただし、それらが基礎技術と同じ範囲を守るとは限らない。
一方、事業計画では、5年目まで高い売上成長と利益率が続き、予測期間後も競争力が維持される前提で残存価値が計算されていた。
特許が満了しても、その翌日から売上がなくなるわけではない。
顧客との関係、製造設備、品質管理、量産ノウハウ、先に市場へ参入したことによる優位性が残ることもある。
しかし、競合企業が同じ技術を使いやすくなれば、価格競争が起きる可能性がある。現在の販売価格や利益率を、そのまま維持できるとは限らない。
特許の満了日と事業の終了日は同じではない。
それでも、特許の残存期間は、競争優位をいつまで維持できるかを考えるうえで重要な情報になる。
高橋は、予測期間後の利益率と残存価値にも印を付けた。
特許を取得すれば、量産技術も引き継げるのか
高橋は、事業部がまとめた技術調査資料も読み返した。
北斗マテリアルの新製品を安定して量産するには、原材料の状態に応じて、温度や処理時間を細かく調整する必要がある。
その調整方法は、手順書だけでは完全に再現できない。現在は、二人のベテラン技術者の経験に大きく依存していると記載されていた。
高橋は、対象となる特許の明細書を確認した。
基本的な処理方法は記載されている。しかし、量産時の細かな条件や、不具合が起きた場合の対応方法まで、すべてが特許に書かれているわけではない。
特許権を取得しても、技術者の経験や社内に蓄積されたノウハウまで、自動的に取得できるわけではない。
事業計画では、買収後も現在の生産体制を維持し、予定どおり量産を拡大できることになっている。
二人の技術者は、買収後も勤務を続けるのか。
ほかの技術者へノウハウを引き継げるのか。
技術承継には、どのくらいの時間と費用がかかるのか。
これらが分からなければ、量産開始の時期も、必要となる費用も変わる可能性がある。
高橋は、量産開始時期と追加開発費の欄にも印を付けた。
「問題点一覧」では、企業価値につながらない
高橋は、調査結果を「特許の問題点一覧」にはしなかった。
権利上の問題を並べるだけでは、それが事業価値へどのように影響するのか、経営企画部にも事業部にも伝わらない。
そこで、知財調査で確認した事実と、事業計画上の前提を一枚の表にした。
| 知財調査で確認した事実 | 事業計画上の前提 | 確認・修正を検討する項目 |
|---|---|---|
| 海外販売予定国の一部で、登録済みの権利が限られている | 海外でも販売価格とシェアを維持する | 海外売上、利益率、慎重シナリオ |
| 基礎技術の特許が事業計画の4年目に満了する | 予測期間後も競争優位が続く | 利益率の低下時期、残存価値 |
| 量産技術が二人の技術者と社内ノウハウに依存している | 買収後も予定どおり量産を拡大できる | 技術承継費用、追加開発費、量産開始時期 |
高橋が販売数量や将来の利益率を決めるわけではない。
知財部が確認した事実を示し、それが事業計画のどの前提に関係するのかを伝える。
市場、製品、販売については事業部が検討する。人材については人事が確認する。事業計画とDCFへの反映は、経営企画部が判断する。
高橋は、その一枚を持って神谷の席へ向かった。
「知財部には、権利関係を確認してもらえれば十分です」
「北斗マテリアルの特許を確認しました」
高橋が声をかけると、神谷はパソコンの画面から目を離さずに尋ねた。
「法的な問題はありましたか」
「権利者や権利の存続について、現時点で重大な問題は確認されていません。ただ、事業計画の前提と照合すると、確認した方がよい点があります」
神谷が顔を上げた。
高橋は、一枚の表を机に置いた。
「海外売上を支える技術について、販売予定国の一部では登録済みの特許が限られています。また、基礎技術の特許は事業計画の4年目に満了します」
「それは知財上のリスクとして報告してください」
「知財上のリスクとだけ書いても、事業価値への影響が分かりません」
神谷の表情が少し硬くなった。
「知財部には、権利関係を確認してもらえれば十分です。市場と製品は事業部が見ています。事業計画と買収価格は経営企画部で検討します」
M&Aプロジェクトが始まったときに聞いた言葉と、ほとんど同じだった。
以前の高橋なら、そこで引き下がっていたかもしれない。
「事業計画を、私が修正したいわけではありません」
高橋は、表の一行目を指した。
「海外で特許を取得している国と、製品を販売する予定の国が一致していません。海外で販売できないという意味ではありませんが、国内と同じ価格やシェアを維持できるかは、事業部に確認した方がよいと思います」
続いて、二行目を示した。
「基礎技術の特許は4年目に満了します。満了後も事業は続くと思います。ただ、現在と同じ利益率が予測期間後も続く前提でよいかは、残存価値に関係します」
最後に、三行目を指した。
「量産技術が二人の技術者に依存しています。買収後の在籍や技術承継が確認できなければ、量産開始の時期と追加費用が変わる可能性があります」
神谷は、表を上から読み返した。
「権利上の重大な問題が見つかったわけではない。しかし、事業計画の前提に影響する事実がある、ということですか」
「はい。知財部だけで影響額を決めることはできませんが、事業部や人事に確認してもらうべき点は整理できます」
神谷は自分のパソコンで、DCFの計算表を開いた。
「海外売上、特許満了後の利益率、量産開始の時期。この三つは、計算の前提を見直す必要がありますね」
それは称賛ではなかった。
しかし、プロジェクトの開始時に「特許だけを調べてください」と言われたときとは、明らかに反応が違っていた。
知財部の調査を、各部門が数字へ変える
神谷は、高橋の表をプロジェクトメンバーへ共有した。
事業部は、北米と欧州で競合製品が参入した場合の販売価格と市場シェアを再検討した。
海外でも国内と同じ利益率を維持するという前提は強すぎる。そこで、海外売上について慎重なシナリオを追加した。
基礎技術の特許が満了した後についても、売上が直ちになくなるとはしなかった。その代わり、競合参入によって販売価格と利益率が段階的に低下するケースを検討した。
人事は、二人のベテラン技術者が買収後も勤務を継続する可能性を確認した。事業部は、ほかの技術者へノウハウを引き継ぐために必要な期間と作業を検討した。
その結果、技術承継には一定の時間がかかることを前提に、量産拡大の時期を遅らせ、教育費用と追加開発費を事業計画へ加えることになった。
知財部が事業計画を作り替えたわけではない。
知財部が事実を示す。
事業部と人事が事業上の影響を検討する。
経営企画部が、その結果を事業計画とDCFへ反映する。
高橋が作った一枚が、各部門の情報をつないでいった。
50億円が47億円になった
数日後、神谷が更新したDCFの計算表をプロジェクトメンバーへ示した。
北斗マテリアルの事業価値は、当初の50億円から47億円へ下がっていた。
高橋は、画面に表示された金額を見た。
「特許に問題があったから、3億円を差し引いたのですか」
「違います」
神谷はすぐに否定した。
「特許そのものに、3億円の減額要因があったわけではありません」
変更したのは、DCFに使う事業計画の前提だった。
海外売上の一部を慎重なシナリオへ変更した。
特許満了後の利益率を見直した。
量産拡大の時期を遅らせた。
技術承継と追加開発に必要な費用を加えた。
その結果、将来のフリーキャッシュ・フローと残存価値が変わり、現在の事業価値が47億円になったのである。
「知財調査の結果を、事業価値から直接差し引いたわけではないのですね」
「そうです。確認された事実を、事業計画の前提へ反映した結果です」
神谷は、高橋が作った表を手に取った。
「権利があるかどうかだけを確認していたら、この見直しはできませんでした」
高橋は、その言葉を聞いて、初めて知財部がDCFの計算に参加できたように感じた。
知財部が割引率を決めたわけではない。
販売計画を作ったわけでもない。
買収価格を決定したわけでもない。
それでも、知財部が確認した事実によって、事業価値を計算する前提が変わった。
買収後にも、知財とファイナンスをつなぐ仕事がある
会議が終わった後、高橋は森田と一緒に資料を片付けていた。
高橋は、更新されたDCFの計算表をファイルへ戻しながら言った。
「そういえば、M&Aの後には、のれんが発生することがあるんだよね」
「そうね」
「でも、のれんって、結局何なの?」
森田は少し考えた。
「例えば、会社を買収するために100億円を支払ったとしても、引き継いだ資産から負債を差し引いた金額が100億円になるとは限らないでしょう」
「買収額の方が高いことがある?」
「あるよ。その会社には、決算書に載っている資産だけでなく、顧客との関係、技術、ブランド、人材、将来の相乗効果などがあるから。そうしたものも含めて、買い手は買収額を決めている」
「その差額が、のれんになるの?」
「大まかなイメージはそう。ただし、買収額と帳簿上の純資産の差額を、そのまま全部のれんにするわけではないの」
「違うの?」
「買収によって取得した資産と引き受けた負債を確認して、取得原価をそれぞれに配分する必要がある。これをPPAというの」
「PPA?」
「Purchase Price Allocation。日本語では、取得原価の配分ね」
買収した会社に特許、技術、ノウハウ、顧客関係などがあり、それらを会計上、ほかの資産から分けて認識できる場合には、識別可能な無形資産として評価することがある。
取得原価を、こうした資産や負債へ配分した後に残る金額が、のれんになる。
「では、ブランドや技術の価値を全部まとめて、のれんと呼ぶわけではないんだ」
「そう。個別に識別できる無形資産があれば、のれんとは分けて認識することになる」
「今回調べた特許も、PPAで評価することがあるの?」
「可能性はあると思う。ただ、特許を必ず一件ずつ評価するわけではないし、特許だけを見ればよいわけでもない」
森田は、高橋が作った表を指した。
「どの技術が収益を生んでいるのか。その効果がどのくらい続くのか。特許とノウハウを分けて考えられるのか。そうした情報も使いながら、会計上どのように整理するかを検討することになると思う」
「今回のDCFは、北斗マテリアルの事業全体の価値を考えるためのもの。PPAは、買収後の会計処理として、取得した資産や負債へ取得原価を配分するもの。目的は違うけれど、使う情報には重なるところがあると思う」
事業計画、将来キャッシュ・フロー、技術が収益を生む期間、特許と製品との関係。
今回の知財調査で確認した情報は、買収後に無形資産を識別し、評価するときにも使われる可能性がある。
高橋は、プロジェクトの最初に神谷から言われた言葉を思い出した。
「特許だけ調べてもらえれば結構です」
確かに、高橋が担当したのは特許の調査だった。
だが、特許を事業計画と照合すると、その結果はDCFを変えた。買収が成立すれば、同じ情報がPPAにもつながっていくかもしれない。
特許だけを調べる仕事は、特許だけでは終わらなかった。
高橋が作った一枚――知財調査の結果をDCFへつなぐ
高橋は、今回の作業を四つの段階に整理した。
| 段階 | 確認すること | 主な担当 |
|---|---|---|
| 1.知財上の事実を確認する | 権利範囲、対象国、残存期間、権利者、ノウハウへの依存 | 知財部 |
| 2.事業計画の前提と照合する | 製品、販売地域、量産時期、競争優位を維持する期間 | 知財部・事業部 |
| 3.事業への影響を検討する | 売上、価格、利益率、追加費用、投資、開始時期 | 事業部・人事・経営企画部 |
| 4.DCFへ反映する | 将来キャッシュ・フロー、シナリオ、残存価値 | 経営企画部 |
知財部がDCFを作る必要はない。
しかし、知財上の事実を事業計画の前提と照合し、それが売上、利益率、費用、投資、時期、継続期間のどこに影響するのかを伝える必要がある。
知財情報が企業価値につながるのは、特許へ直接値段を付けたときだけではない。
事業計画の前提を、より現実に近いものへ変えたときにも、知財情報は企業価値の計算へ組み込まれる。
今回のポイント
- 知財DDと事業計画:知財DDでは、権利の有無や存続だけでなく、事業計画の前提との整合性も確認します。
- 海外権利と事業:海外で特許を取得していないことと、その国で販売できないことは同じではありませんが、模倣、競合参入、価格、シェアへの影響を検討する必要があります。
- 特許満了後の競争力:特許満了後も、ノウハウ、顧客関係、生産能力などによって競争力が続く場合があります。
- 部門ごとの役割:事業部は市場・製品・販売、人事は人材、経営企画部は事業計画とDCF、知財部は権利と知財上の事実を担当します。
- 事業価値の修正:事業価値が50億円から47億円へ下がったのは、特許の評価額を直接差し引いたためではなく、知財情報を受けて事業計画とDCFの前提を見直したためです。
- PPA:買収額と帳簿上の純資産との差額が、そのまま全額のれんになるわけではありません。
- 無形資産とのれん:PPAでは特許、技術、ノウハウ、顧客関係などを識別可能な無形資産として認識することがあり、資産・負債へ配分した後に残る金額がのれんになります。
次回予告
第10話 買いたい会社が現れた。この特許、いくらで売る?
北斗マテリアルのM&Aプロジェクトが一区切りついた頃、A事業部の佐々木が知財部を訪れます。
「うちが使うてへん特許を買いたい、いう会社から話が来たんや。開発に3億円かかったんやから、それ以上で売れるやろ」
開発に使った金額は、そのまま現在の特許価値になるのでしょうか。
高橋は、開発費と現在価値、原価と取引価格、評価基準日の違いを考えます。