※本連載は、知財担当者が会計・ファイナンスを学んでいく過程を描いた架空の物語です。
その判断は、誰の仕事か
高橋は黒田知財部長とともに、知財の役割と成果指標を整理した表を持って、社長室を訪れた。
社長は表を見ていた。
事業目標。
知財の役割。
途中で確認する指標。
結果を確認する指標。
出願件数や登録特許件数だけでなく、新製品の売上、利益率、販売開始時期、海外売上、ライセンス収入まで整理されている。
「測るものは分かった。では、この数字を誰が確認し、誰が判断する?」
高橋は答えた。
「知財部だけでは判断できません。事業部、研究開発部門、経営企画部、経理・財務部門と一緒に確認します」
「確認した後は?」
「計画との差があれば、原因を調べます」
「調べた後だ」
社長は、新素材製品の欄を指した。
「今、新素材製品の販売開始が遅れている。追加投資をするのか、方法を変えるのか、計画を中止するのか。誰が決める?」
高橋は、すぐには答えられなかった。
「海外で必要な特許を取れなかったら、海外展開を続けるのか。ライセンス収入が計画に届かなかったら、契約を見直すのか。取締役会は何を監督し、社外には何を説明する?」
知財の役割と、確認する指標は整理できた。
しかし、その数字を誰が確認し、誰が判断に使うのかは決まっていなかった。
数字は異常を知らせるが、決定はしない
社長室を出た高橋と黒田は、知財部へ戻ると、先ほどの質問を改めて整理した。
「確認する指標は作りました。でも、計画どおりでなかったときに、誰が何を決めるのかが整理できていません」
黒田は表を開いた。
「今、新素材製品の販売開始の遅れが社内で問題になっている。指標から何が分かる?」
「量産化や顧客評価が、計画より遅れていることは分かります」
「なぜ遅れたかは?」
「研究開発の問題かもしれません。顧客の評価が進んでいない可能性もあります。海外で必要な権利を確保できていないことも考えられます」
「知財部だけで原因を決められるか」
「できません」
特許の取得状況は、知財部が確認できる。
技術開発と量産化の進捗は、研究開発部門が把握している。
顧客の評価、価格、販売数量は、事業部と営業部門が把握している。
投資額、利益率、キャッシュ・フローへの影響は、経理・財務部門が確認する。
事業計画全体との関係は、経営企画部が整理する。
情報は、複数の部門に分かれていた。
「数字は、計画と違っていることを知らせてくれる」
黒田が言った。
「だが、数字が追加投資や中止を決めてくれるわけではない」
高橋はうなずいた。
出願件数を数えるだけでは、事業への成果は分からなかった。
事業成果の指標を作るだけでも、経営判断にはならなかった。
指標を経営の判断へつなぐ仕組みが必要だった。
販売開始の遅れは、どこから生じたのか
数日後、経営企画部の神谷が、新素材製品の販売開始の遅れについて、関係部門の会議を招集した。
会議には、新素材事業部と研究開発部門の担当者、経理部の森田、知財部の高橋が参加した。
神谷は、研究開発部門の担当者に尋ねた。
「販売開始が遅れている原因を、技術開発と量産化の状況から説明してください」
研究開発部門の担当者が資料を開いた。
「試作品の性能は目標に達しています。ただ、量産したときの品質が安定していません。製造条件を追加で検討する必要があります」
神谷は、次に事業部の担当者へ確認した。
「顧客の評価はどうなっていますか」
「顧客からは、性能だけでなく、安定供給できることを求められています。販売開始を急いでも、品質が安定しなければ採用されません。現時点では、販売開始が当初の計画より半年程度遅れる見込みです」
高橋は、二人の説明を聞いてから尋ねた。
「量産条件が固まったとき、その内容を特許で保護するのか、ノウハウとして管理するのかを検討する必要があります。研究開発の記録は残していますか」
研究開発部門の担当者が答えた。
「試験結果と製造条件の変更履歴は残しています。ただ、保護方法までは決めていません」
「将来、海外拠点でも生産する計画があるなら、ノウハウを誰に、どこまで共有するのかも事前に決める必要があります」
森田は、財務計画を確認した。
「販売開始が半年遅れれば、売上とキャッシュ・フローが生じる時期も半年遅れます。追加開発費も必要です。ただし、品質が安定しないまま販売して問題が起きれば、損失はさらに大きくなります」
神谷は、ホワイトボードに問題を書き出した。
技術開発。
量産化。
知財の保護方法。
顧客による採用。
追加投資。
販売開始時期。
一つの販売開始の遅れでも、複数の部門が持つ情報をつながなければ、原因も対応方法も判断できなかった。
神谷は、ホワイトボードに書き出した項目を見直した。
「研究開発部門は、技術と量産化の進捗を確認する。事業部は、顧客の評価と販売計画を確認する。知財部は、特許やノウハウの保護方法を確認する。経理部は、追加投資とキャッシュ・フローへの影響を確認する」
神谷は、最後に「事業計画の見直し」と書き加えた。
「それぞれの情報をここへ集めて、投資を続けるのか、計画を変更するのかを判断する必要があります」
各部門は、技術、顧客・市場、知財、財務の情報を持ち寄り、経営企画部が事業計画と経営資源の配分へつなぐ。
各部門は別々の成果を追うのではなく、同じ事業目標を異なる立場から確認する必要があった。
経営会議は決め、取締役会は監督する
各部門が確認する内容は整理できた。
しかし、この会議だけで、追加投資や販売計画の変更を決めることはできなかった。
神谷は、会議の最後に言った。
「量産条件の見直しに必要な追加開発費と、販売開始の遅れが事業計画へ与える影響を整理します。そのうえで、経営会議へ対応案を出しましょう」
会議の後、高橋は神谷に尋ねた。
「各部門が情報を確認した後、最終的な判断はどこで行うのでしょうか」
神谷は、会社の会議体と決裁権限を確認しながら説明した。
決められた予算と方針の範囲内で対応できる問題は、担当部門と担当役員が判断する。
追加の研究開発投資、新たなライセンス契約、海外での権利取得、M&Aによる技術獲得など、事業計画や経営資源の配分に影響する事項は、経営会議で判断する。
会社全体の戦略や重要な投資に関わる事項は、取締役会へ報告し、必要な決議を受ける。
高橋は尋ねた。
「取締役会は、個々の特許について判断するのでしょうか」
神谷は答えた。
「すべての特許を一件ずつ確認するわけではありません」
取締役会が確認するのは、経営陣が知財を含む投資を事業戦略と結び付けているか。
重要な投資とリスクを把握しているか。
計画の遅れや前提の変化に対応しているか。
限られた資金、人材、時間を、会社の成長に必要な分野へ配分しているか。
「経営会議が、投資の継続、修正または中止を判断します」
神谷が言った。
「取締役会は、その判断が会社の戦略と整合しているかを監督します。両方を分けて考える必要があります」
知財部が権利を管理しているだけでは、知財のガバナンスにはならない。
経営が知財を事業の成長へ活用し、その投資とリスクを取締役会が監督する。
高橋は、知財が経営課題になるという意味を、ようやく具体的に理解した。
各部門の確認を、経営判断へつなぐ
高橋は、これまで作成してきた表を見直した。
事業目標ごとに、知財に関する前提、確認する指標、確認責任を持つ部門、判断する場を整理した。
| 事業目標 | 知財に関する主な前提 | 確認する指標 | 主な確認責任 | 判断する場 |
|---|---|---|---|---|
| 主力製品の利益を維持する | 重要特許、製造ノウハウ、品質によって競争力を維持できる | 特許の残存期間、競合・代替技術、価格、利益率、競合製品の参入 | 事業部、知財部、経理・財務部門 | 事業会議、経営会議 |
| 新素材製品を育てる | 必要な特許とノウハウを確保し、量産化できる | 権利・ノウハウの確保、量産化、顧客評価、販売開始時期、新製品売上 | 研究開発部門、事業部、知財部 | 担当役員、経営会議 |
| 海外売上を増やす | 販売国で事業を守り、安定して製造・販売できる | 国別の権利取得、ノウハウ管理、模倣品、海外売上、利益 | 海外事業部、知財部、経営企画部 | 経営会議 |
| 未利用特許から収益を得る | 契約後に製品が販売され、利益と自社の選択肢を確保できる | 契約締結、販売開始、売上報告、ライセンス利益、管理費用、自社利用への影響 | 知財部、事業部、経理・財務部門 | 担当役員、経営会議 |
各部門は、担当する指標を定期的に確認する。
計画との差が生じた場合は、関係部門で原因を確認する。
事業計画、重要な投資、リスクまたは会社全体の経営資源の配分に影響する場合は、経営会議で対応を決める。
重要な戦略と投資の進捗は、取締役会へ報告する。
ただし、確認する部門や判断する会議は、会社の規模、組織、決裁権限によって異なる。
重要なのは、自社の中で、誰が確認し、誰が決め、誰が監督するのかを曖昧にしないことだった。
高橋は、関係部門会議で確認した内容を表へ反映した。
黒田は、知財に関する前提と確認項目を確認した。神谷は、事業計画と経営会議への付議事項を確認した。森田は、投資額、利益率、キャッシュ・フローに関する項目を確認した。
佐々木は、主力製品と未利用特許について、事業部が確認する指標と判断の時期を確認した。
表がまとまると、高橋は黒田、神谷、森田、佐々木とともに、社長へ報告した。
開示するのは、特許一覧ではなく投資仮説
社長は、完成した表に目を通した。
「誰が情報を確認し、どこで判断するのかは分かった」
社長は表を机に置いた。
「では、この取り組みを社外へ説明するとしたら、何を伝える?」
高橋は答えた。
「保有特許の件数だけではありません」
会社がどの事業を成長させようとしているのか。
その事業で、どのような競争優位を築こうとしているのか。
競争優位を支えるために、どのような特許、ノウハウ、技術、人材、データが必要なのか。
それらを、自社開発、共同研究、購入、ライセンス、M&Aなどのどの方法で確保するのか。
投資がどこまで進み、どのような事業成果へつながっているのか。
計画の実現を妨げるリスクは何か。
「個々の特許を説明するのではなく、何に投資し、それによってどのような競争優位と事業成果を生み出そうとしているのかを説明します」
高橋が言った。
森田が付け加えた。
「投資額だけを示しても、その投資が将来の何を変えるのかは伝わりません。売上、利益率、発生時期、必要な追加投資、リスクを通じて、将来キャッシュ・フローへどうつながると考えているのかを説明する必要があります」
社長が尋ねた。
「技術の中身まで公開するのか?」
「いいえ」
神谷が答えた。
「競争上重要な情報まで公開する必要はありません。具体的な技術内容を明らかにしなくても、どの事業領域へ投資し、どのような競争優位を築こうとしているか、その進捗を何で確認しているかは説明できます」
開示するのは、保有する知財の一覧ではない。
知財へ投資すれば企業価値が上がるという宣言でもない。
会社が考えている、事業戦略、知財への投資、競争優位、事業成果、将来キャッシュ・フローのつながりである。
それは、知財投資に関する会社の仮説を説明することだった。
投資家の質問が、前提の抜けを見つける
後日、社長と神谷は、投資家との面談で新素材事業について説明した。
黒田と高橋も、知財に関する質問へ答えるため同席した。
神谷は、新素材製品を成長事業として位置付け、技術開発、量産化、知財の確保へ投資していることを説明した。
投資家が尋ねた。
「その製品の競争優位は、特許だけで守られているのでしょうか」
高橋は答えた。
「材料に関する特許に加え、量産条件、品質管理、顧客ごとの調整に関するノウハウが競争優位を支えています。特許だけで事業全体を守っているわけではありません」
「主要な特許が満了した後も、価格と利益率を維持できますか」
高橋は答えようとして、止まった。
重要特許の残存期間は確認している。
しかし、特許満了後に競合企業がどの程度参入するのか。
ノウハウ、品質、顧客との関係によって、価格と利益率を維持できるのか。
そこまでは、まだ十分に検討していなかった。
黒田が答えた。
「主要な特許の残存期間は把握しています。ただ、特許満了後の競争条件と、価格や利益率への影響までは事業計画に反映できていません」
社長は投資家に答えた。
「その点は、当社でも確認が不足しています。特許満了後の競争条件を事業計画へ反映します」
面談後、高橋は言った。
「説明する資料を作ったことで、検討できているつもりになっていました」
神谷がうなずいた。
「外部から質問されると、社内では前提として扱っていたことが見えてきます」
社外へ説明する。
質問を受ける。
確認できていない前提やリスクを見つける。
社内で事業計画を見直す。
必要であれば、投資や戦略を修正する。
投資家や金融機関などとの対話は、完成した答えを一方的に伝える場ではなかった。
経営戦略を検証し、次の判断へ戻す仕組みの一部だった。
高橋は、投資家から指摘された特許満了後の競争条件について、黒田、神谷、森田と確認した。
既に表に挙げていた特許の残存期間、競合・代替技術、価格、利益率について、特許満了後に何を確認するのかを具体化した。
表を更新した後、高橋は黒田、神谷、森田とともに、社長へ最終報告を行った。
最初の宿題への答え
高橋は、社長から最初に与えられた宿題への回答を始めた。
「知財で企業価値を高める方法を考えてほしい」
あのとき、高橋は、保有特許の件数、登録国、残存期間、被引用数などを調べようとしていた。
しかし、それらを並べても、企業価値との関係は説明できなかった。
「知財で企業価値を高めるために必要なことは、五つあると考えます」
一つ目は、選ぶこと。
会社が目指す事業と競争優位から、必要な知財を明確にする。
二つ目は、投資すること。
自社開発、共同研究、購入、ライセンス、M&Aなどから、必要な知財を確保する方法を選ぶ。
三つ目は、測ること。
知財の確保と活用がどこまで進み、売上、利益率、発生時期、投資額、リスクへどうつながっているかを確認する。
四つ目は、判断すること。
計画どおりでなければ、投資の継続、修正または中止を経営が決める。取締役会は、その判断と事業戦略との整合性を監督する。
五つ目は、説明して見直すこと。
知財への投資が競争優位と将来キャッシュ・フローへつながる道筋を社外へ説明し、対話を通じて前提と戦略を見直す。
社長が尋ねた。
「つまり、特許があれば企業価値が高くなる、という話ではないんだな」
「はい」
高橋は答えた。
「知財だけで企業価値が決まるわけではありません。知財を事業、投資、経営判断へつなぎ、環境の変化に応じて見直し続ける仕組みが、企業価値の向上につながります」
特許が、売上を増やすことがある。
価格や利益率を守ることがある。
競合企業の参入を防ぐことがある。
新しい市場への参入を支えることがある。
ライセンス収入を生むことがある。
一方で、知財の取得、維持、活用には費用がかかる。
事業化できないこともある。
代替技術が現れることもある。
権利があっても、顧客から選ばれないこともある。
だからこそ、知財を保有するだけでは足りない。
事業に必要な知財を選び、投資し、活用する。
結果を確認し、次の判断へつなげる。
その判断を、経営の仕組みとして続ける必要があった。
一枚の表が、経営の仕組みに変わる
社長は、更新された表をもう一度見直した。
「この表を、知財部だけの資料にしないでくれ」
「はい」
黒田と高橋が答えた。
「A事業でも、次年度の事業計画と一緒に確認しますわ」
佐々木が言った。
「次年度の事業計画と投資計画に組み込む。重要な事業については経営会議で進捗を確認し、取締役会にも報告する」
神谷、森田、黒田、佐々木がうなずいた。
「社外へ説明する内容も、この表を基礎に整理しよう」
社長は高橋に尋ねた。
「これで宿題は終わりか?」
高橋は少し考えた。
「答えはまとめました。でも、この表は完成ではありません」
事業計画は変わる。
競合企業も、技術も、市場も変わる。
重要だった特許が満了することもある。
新しい技術やノウハウが必要になることもある。
投資の結果が、計画どおりにならないこともある。
「状況が変わるたびに、必要な知財、投資、指標を見直す必要があります」
社長はうなずいた。
「それなら、宿題ではなく、これからの仕事だな」
高橋が最初に作ろうとしたのは、保有特許を並べた一覧だった。
その一覧に、事業目標が加わった。
事業に必要な知財が加わった。
途中の指標と結果の指標が加わった。
確認する部門、判断する場、社外へ説明する内容が加わった。
特許一覧は、会社が事業と投資を考えるための一枚へ変わっていた。
知財で企業価値を高めることは、一件の特許に高い金額を付けることではない。
知財を事業の成長と競争優位へつなぎ、その結果を将来キャッシュ・フローとリスクの変化として確認し、経営が次の判断を続けることだった。
高橋は、最初に作った特許一覧を閉じた。
そして、次年度の事業計画を開いた。
今回のポイント
- 確認・判断・監督:知財の指標を作るだけでなく、誰が確認し、誰が判断し、誰が監督するかを明確にします。
- 部門ごとの確認:知財部、事業部、研究開発部門、経営企画部、経理・財務部門は、同じ事業目標を異なる立場から確認します。
- 知財部の役割:事業計画の前提となる特許やノウハウが、必要な時期までに確保・活用できる状態かを確認します。
- 経営会議の役割:知財を含む投資の継続、修正または中止を、事業計画や経営資源の配分との関係から判断します。
- 取締役会の役割:知財を含む投資と事業戦略の整合性、重要なリスク、経営陣の対応を監督します。
- 社外への説明:特許件数だけでなく、事業戦略、知財への投資、競争優位、事業成果、将来キャッシュ・フローのつながりを説明します。
- 企業価値を高める仕組み:必要な知財を選び、投資し、測定し、判断し、説明と対話を通じて見直し続けます。