※本連載は、知財担当者が会計・ファイナンスを学んでいく過程を描いた架空の物語です。
北斗マテリアルのM&Aプロジェクトが一区切りついてから、数週間が過ぎた。
高橋が知財部で特許一覧を整理していると、会議室の扉が勢いよく開いた。
「高橋君、おるか?」
A事業部の佐々木だった。
手には、一枚のメールを印刷した紙が握られていた。
「この特許を買いたい」と連絡が来た
「どうされましたか」
「取引先から、うちの特許を買いたいいう話が来たんや」
佐々木は、高橋の向かいに座り、メールを机の上へ置いた。
相手は、東洋テクノと以前から取引のある中堅メーカーだった。
東洋テクノが数年前に開発した表面処理技術を、自社の新製品へ利用したい。そこで、関連する特許権を譲ってもらえないかと書かれている。
「この特許は、現在使っているのですか」
「今の製品には使うてへん。昔、新しい部品を作ろうとして開発したんやけど、結局、製品化せんかった技術や」
「今後、東洋テクノで使う予定はありますか」
「少なくとも、うちの事業部では予定してへん。せやから、条件が合うんやったら売ってもええと思うてる」
佐々木は、メールの末尾を指でたたいた。
「先方から、まず希望価格を出してほしい言われてる。高すぎたら話が流れるし、安すぎたらこっちが損する」
そして、高橋の顔を見た。
「特許の値段なんやから、知財部で分かるんちゃうんか?」
高橋は、すぐには答えられなかった。
権利者、権利範囲、残存期間なら調べられる。
しかし、「いくらで売るべきか」と聞かれると、特許公報を読むだけでは答えられない。
「まず、特許の内容と過去の開発資料を確認させてください」
「頼むわ。先方を待たせられへんから、なるべく早う金額の目安を出してくれ」
佐々木はそう言い残し、会議室を出ていった。
開発には3億円かかっていた
高橋は、対象となる特許の資料を集めた。
特許権は日本で登録されており、残存期間は約8年ある。権利者は東洋テクノで、共有者はいない。登録料も納付されている。
権利関係だけを見れば、譲渡を検討できる状態だった。
次に、開発部門が保管していた資料を確認した。
この技術は、部品の耐久性を高める表面処理方法として開発されていた。基礎研究、試作品の製作、性能試験、製造設備の改造などに、数年間で約3億円が投じられている。
高橋は、その数字を佐々木へ伝えた。
「開発資料を確認しました。この技術には、総額で約3億円が使われています」
「3億円か」
佐々木は腕を組んだ。
「ほな、それより安う売ったら損なんちゃうか?」
高橋も、資料で3億円という数字を見つけたとき、一度は同じことを考えた。
しかし、すぐに疑問が浮かんだ。
買い手は、東洋テクノが過去に負担した研究開発費を補填するために、特許を買うわけではない。
買い手が欲しいのは、現在存在する特許権と、それを自社の事業へ利用する機会である。
「3億円が、そのまま売却価格になるかどうかは、もう少し確認が必要です」
「開発に3億円かかってるんやで」
「はい。ただ、その金額と、現在の特許の価値が同じとは限りません」
「どういうことや?」
高橋は、その場で説明できるところまで整理できていなかった。
「開発費の中身と、先方がこの特許をどう使うのかを調べます」
佐々木は納得していない様子だったが、「早う頼むで」と言って席へ戻った。
過去の原価と、現在の取引価値
高橋は、経理部の森田に相談した。
「開発に3億円かかった特許を、それより安く売ったら、会社は損をしたことになるのかな」
「第3話で整理したとおり、すでに使った開発費と、現在の価値は同じではないよ。売っても売らなくても、過去の3億円は戻らない」
森田は、原価、価値、価格と紙に書いた。
「原価は開発に使った金額。価値は、一定の時点と前提のもとで、その特許が持つ経済的便益。価格は、実際の取引で売り手と買い手が合意する金額。三つは当然に一致するものではない」
「それでも、開発費は無意味ではないんだよな」
「うん。現在、同じ機能を持つ技術を再現するために必要な費用と時間を考える材料にはなる。ただし、不採用となった研究や試作品の費用をそのまま含めることはできないし、代替技術や陳腐化も考える必要がある」
高橋は、3億円という数字の横に「過去原価」と書き加えた。
過去の開発費は、価値を考えるための資料にはなる。しかし、それだけで現在の価値や売却価格が決まるわけではなかった。
買い手は、何を買おうとしているのか
高橋は、購入を希望している会社から届いたメールを読み直した。
メールには「表面処理技術に関する特許権を譲り受けたい」と書かれている。
だが、相手が本当に必要としているものは、特許権だけなのだろうか。
特許明細書には、発明の基本的な内容が記載されている。
一方、東洋テクノの開発資料には、材料の配合、試験条件、不具合が起きた場合の調整方法など、特許明細書には書かれていない情報も含まれていた。
相手が製品化するには、試験データや技術指導が必要になる可能性がある。
関連する改良特許や出願中の発明も確認しなければならない。
高橋は、佐々木へ尋ねた。
「先方は、日本の特許権だけを欲しいのでしょうか。それとも、試験データや製造条件、技術指導も必要なのでしょうか」
「そこまでは聞いてへんな」
「利用する製品や分野は分かりますか」
「新しい産業機器の部品に使いたいとは聞いてる。ただ、詳しい製品計画までは向こうも出さんやろ」
「すべての事業計画を開示してもらう必要はありません。ただ、利用分野、対象製品、必要な権利や技術情報が分からないと、何を譲渡する取引なのか決められません」
佐々木は、メールを見ながらうなずいた。
「先方に確認するわ。こっちから聞く項目をまとめてくれ」
今回の特許を、三つの方法で考える
高橋は、特許や技術の価値を考える三つの方法を、今回の案件へ当てはめてみた。
コスト・アプローチ
一つ目は、同じ特許や同等の機能を持つ技術を、評価時点で再び作るために必要な費用から考えるコスト・アプローチである。
第3話で確認したように、過去の開発費をそのまま現在価値とするのではなく、再製作原価又は代替原価を基礎に、不要な支出、技術的な陳腐化、利用可能性の低下などを調整する。
ただし、再開発に多額の費用が必要でも、その技術から十分な収益を得られなければ、買い手が同額を支払うとは限らない。
マーケット・アプローチ
二つ目は、類似する特許や技術が、実際にいくらで取引されたかを参考にする方法である。
実際の取引価格を利用できれば、売り手と買い手が市場で合意した金額を参考にできる。
しかし、特許は一件ごとに、権利範囲、残存期間、対象国、技術分野、事業への利用方法が異なる。
譲渡価格が公表されていても、ノウハウや技術支援が含まれているのか分からないことがある。そもそも、取引条件が非公開の場合も多い。
今回の表面処理技術についても、そのまま比較できる取引を見つけられるとは限らなかった。
インカム・アプローチ
三つ目は、その特許を利用することで将来得られる追加収益や費用削減から価値を考える方法である。
買い手が特許を利用して新製品を販売できるなら、その製品から得られる利益が関係する。
別の技術を使う場合より製造費用を削減できるなら、その削減額も経済的便益になる。
開発期間を短縮し、競合より早く市場へ参入できることにも価値があるかもしれない。
一方で、販売数量、販売価格、利益率、製品化の時期、追加投資、技術上のリスクなど、多くの前提が必要になる。
買い手の詳しい事業計画が開示されない段階では、一つの確定した金額ではなく、複数の仮定に基づく価格帯として考える必要がある。
三つの方法には、それぞれ使える情報と限界がある。
どれか一つを機械的に選べば、正しい価格が出るわけではなかった。
同じ特許でも、売り手と買い手の価値は違う
高橋は、もう一つの整理が必要だと気づいた。
東洋テクノにとって、この特許は現在使っていない権利である。
ただし、売却すれば、将来、東洋テクノが同じ技術を使おうとしたときに制約を受ける可能性がある。
相手が東洋テクノと競合する製品へ利用すれば、将来の事業機会を失うかもしれない。
売り手にとっての価値は、現在の収益だけでなく、売却によって失う将来の選択肢にも左右される。
一方、買い手にとっては、この特許を取得することで、新製品を早く市場へ投入できるかもしれない。
自社で一から開発する費用や時間を省き、競合企業の参入を抑えられる可能性もある。
同じ特許でも、東洋テクノにとって手放す価値と、買い手にとって取得する価値は一致しない。
取引が成立するためには、双方が納得できる範囲を探す必要がある。
いつの時点の価値を考えるのか
高橋は、資料の日付を確認した。
開発費3億円は、数年前までに支出された金額である。
現在の特許の残存期間は約8年。
買い手から購入の打診が来たのは、今月だった。
特許の価値は、評価する時点によっても変わる。
新しい代替技術が発表されれば、価値が下がるかもしれない。
買い手の製品化が進み、利用方法が具体化すれば、価値の見通しが変わる可能性もある。
交渉が長引く間に、特許の残存期間は短くなっていく。
高橋は、今回の検討では、購入打診を受けた現在を評価基準日とすることにした。
過去の開発時点の価値でも、将来製品化された時点の価値でもない。
現在利用できる情報に基づき、現在の価値を考える。
評価基準日を定めることで、どの時点の権利状態、技術、市場情報、事業見通しを使うのかが明確になった。
売る対象を決めなければ、価格も決まらない
高橋は、黒田知財部長へ調査結果を説明した。
「先方は特許権の譲渡を希望しています。ただ、特許だけで技術を利用できるかは分かりません。試験データや製造条件も必要になる可能性があります」
黒田は、特許公報と関連出願の一覧を確認した。
「まず、どの権利を譲渡するのかを明確にしなければならないな」
「この登録特許だけではないのですか」
「この特許には、関連する改良発明と出願中の案件がある。登録特許だけを譲渡しても、買い手が予定している製品を十分にカバーできるとは限らない」
黒田は、次に開発資料を見た。
「ノウハウや試験データを提供するなら、秘密情報の範囲や利用条件も整理する必要がある。技術指導を行うなら、その対価も特許の譲渡価格とは分けて考えた方がよいかもしれない」
「譲渡後に、東洋テクノがこの技術を使えるかどうかも決める必要がありますね」
「ああ。特許権を譲渡すれば、権利者は相手へ移る。東洋テクノが将来使う可能性を残すなら、その扱いを契約で決めなければならない」
黒田が整理したのは、ファイナンスの計算ではなかった。
何を売り、何を残すのか。
どの権利と情報を相手へ渡すのか。
価格を考える前に、取引対象そのものを定める必要があった。
高橋が作った一枚――特許価格を考える前の確認事項
高橋は、今回確認した内容を一枚の表に整理した。
| 区分 | 確認する内容 | 今回の状況 |
|---|---|---|
| 過去の原価 | 研究費、試作費、試験費、設備改造費 | 約3億円。ただし、不採用となった研究なども含む |
| 現在の再開発費用 | 同じ技術又は同等の機能を現在再現するための費用と時間 | 未算定 |
| 市場情報 | 類似する特許・技術の取引価格と取引条件 | 比較可能な取引を調査する必要がある |
| 将来の経済的便益 | 売上増加、利益率向上、費用削減、開発期間短縮 | 買い手の利用方法を確認する必要がある |
| 知財上の条件 | 権利範囲、対象国、残存期間、関連出願、代替技術 | 日本特許、残存期間約8年。関連出願あり |
| 売り手への影響 | 自社利用の予定、将来の事業機会、競合への影響 | 現事業部では利用予定なし。全社確認が必要 |
| 取引対象 | 特許権、関連出願、ノウハウ、試験データ、技術指導 | 相手との確認が必要 |
| 評価基準日 | どの時点の情報を基礎に価値を考えるか | 購入打診を受けた現在 |
| 契約条件 | 譲渡後の利用、保証、改良技術、秘密保持 | 未検討 |
3億円は重要な情報である。
しかし、それは価格の答えではない。
現在の特許がどのような権利を持ち、買い手の事業でどのように使われ、将来どれだけの便益を生むのか。
東洋テクノは、売却によって何を失うのか。
何を譲渡し、何を取引の対象外とするのか。
それらを整理して初めて、合理的な価格帯を検討できる。
「3億円以上」とは、まだ言えない
高橋は、整理した一枚を持って佐々木のもとへ戻った。
「価格の考え方を整理しました」
「それで、なんぼになった?」
「現時点では、まだ一つの金額にはできません」
佐々木は、少し不満そうな顔をした。
「開発に3億円かかってるんやろ。それは価格に関係ないんか?」
「現在、同等の技術を一から開発する費用と時間を考える材料にはなります。ただし、不採用となった研究や試作品の費用も含まれているため、過去の3億円をそのまま現在価値や最低価格にはできません」
高橋は、表の将来の経済的便益の欄を指した。
「一方で、買い手がこの特許をどの製品に使い、どのような便益を得るのかが分かっていません。詳しい事業計画までは開示されないとしても、利用分野、対象製品、必要な権利や技術情報は確認する必要があります」
「向こうの使い方によっても、価値が変わるいうことか」
「はい。ただし、買い手にとって価値が高いからといって、その全額を売却価格にできるとも限りません。代替技術の有無や、双方の交渉条件によって実際の価格は変わります」
「一つの正解が出るわけやないんやな」
「評価は、合理的な価格帯を考えるための基礎になります。そのうえで、実際の価格は交渉で決まります」
高橋は、最後に取引対象の欄を示した。
「それから、特許権だけを譲渡するのか、関連出願や試験データも含めるのかを決める必要があります。譲渡後に東洋テクノがこの技術を使えるようにしておくかどうかも、価格に関係します」
佐々木は、しばらく表を眺めていた。
「ちょっと待てよ」
「はい」
「特許を売ってしもうたら、うちはもう使われへん可能性があるんやろ」
「契約条件によりますが、何も定めずに特許権を譲渡すれば、権利者は相手へ移ります」
「今は使うてへんけど、将来も絶対使わんとは言い切れへんな」
佐々木は腕を組み直した。
「それやったら、売らんと、使うことだけ認めて、毎年金をもろうた方がええんちゃうか?」
高橋は、その言葉に顔を上げた。
特許権を完全に譲渡する。
権利は保有したまま、相手へ利用を許諾する。
将来の事業機会に備え、誰にも使わせず保有し続ける。
価格を考える前に、そもそも、どの選択肢が東洋テクノにとって最も有利なのかを検討する必要がありそうだった。
今回のポイント
- 原価と価値:特許の開発にかかった過去の費用と、現在の特許価値は同じではありません。
- コスト・アプローチ:再製作原価または代替原価を基礎とし、陳腐化などを考慮します。
- マーケット・アプローチ:類似する特許や技術の取引価格を参考にしますが、権利範囲や取引条件の違いに注意します。
- インカム・アプローチ:特許が将来生み出す追加収益や費用削減を基礎に考えます。
- 当事者による価値の違い:同じ特許でも、売り手が失う事業機会と、買い手が得る便益は異なります。
- 評価額と取引価格:評価額は評価基準日時点の前提に基づく価値であり、実際の取引価格は交渉によって決まります。
- 取引対象:価格を検討する前に、特許権、関連出願、ノウハウ、試験データ、技術支援のどこまでを取引対象にするかを決めます。
次回予告
第11話 売るか、貸すか、それとも持ち続けるか
外部企業から特許の購入を打診された東洋テクノ。
過去の開発費だけでは売却価格を決められず、取引対象や買い手の利用方法によっても価値が変わることを知った高橋。
佐々木事業部長から、新しい疑問が示されます。
「売ってしもうたら、それで終わりやろ。使わせて、毎年金をもろた方がええんちゃうか?」
特許権を譲渡するのか、ライセンスするのか、それとも将来の事業機会に備えて保有し続けるのか。
高橋は、売却価格、ライセンス料率、将来収益、機会費用を比較します。