特許権価値評価コラム

知財・無形資産ガバナンスとは――取締役会は「見えない資産」をどう監督するか

企業の競争力を支えるものは、工場、設備、土地などの有形資産だけではありません。

製品やサービスを差別化する技術、現場に蓄積されたノウハウ、顧客からの信頼を支えるブランド、事業活動から得られるデータ、新しい事業を生み出す人材や組織力、販売網、顧客との関係など、財務諸表だけでは捉えにくい知財・無形資産の重要性が高まっています。

これは、有形資産が重要でなくなったという意味ではありません。設備や生産能力が同じであっても、技術、データ、人材、業務ノウハウ、ブランド、顧客基盤などをどのように組み合わせるかによって、商品・サービスの価値、利益率、成長力に差が生じるようになったということです。

デジタル化やサービス化が進むなかで、企業の競争力は、保有する設備の規模だけでなく、その設備と知財・無形資産を使って何を実現できるかによって左右されます。そのため、知財・無形資産は知財部門だけの管理対象ではなく、企業がどの事業へ投資し、将来どのような競争力をつくるかという経営課題になっています。

2021年に改訂されたコーポレートガバナンス・コードでは、知的財産への投資等について、経営戦略・経営課題との整合性を意識した情報開示と、取締役会による実効的な監督が示されました。2026年の政策でも、知財・無形資産を成長投資として捉え、価値創造へ結びつける考え方が一層重視されています。

ただし、取締役会が個々の特許出願や商標登録の要否を判断するわけではありません。

取締役会が監督すべきなのは、知財・無形資産への投資が、経営戦略、顧客価値、競争優位、将来キャッシュフロー及び企業価値へつながる仕組みです。

知財・無形資産ガバナンスは「知財管理」ではない

知財管理と知財・無形資産ガバナンスは、同じものではありません。ただし、知財管理が不要になるわけでもありません。

一般的な知財管理には、特許権や商標権の取得・維持、他社権利の調査、侵害への対応、ライセンス契約、営業秘密の管理、技術情報の流出防止などがあります。これらは、自社の技術やブランドを守り、紛争や事業停止を防ぐために欠かせない基礎的な活動です。

そこから一歩進んだ知財経営では、知財を商品・サービスの差別化、競合企業の参入抑制、共同開発、ライセンス、技術ブランドの形成などに活用します。知財部門も、権利を取得して管理するだけでなく、事業部門や研究開発部門と連携し、事業上の成果を生み出す役割を担います。

さらに発展した知財・無形資産ガバナンスでは、対象を特許や商標だけに限定しません。技術、ノウハウ、ブランド、ソフトウェア、データ、人材、組織力、顧客基盤など、将来の競争力を支える幅広い経営資源を対象にします。

そして、現在保有する資産をどう守るかだけでなく、将来実現したい事業のために、どのような資産を育て、獲得し、組み合わせるかを検討します。これは知財部門だけでは完結せず、事業、研究開発、経営企画、財務、法務、IRなどが共通の経営課題として取り組む必要があります。

段階 主な対象 主な目的 主な担当
知財管理 特許、商標、営業秘密など 権利保護、侵害・流出防止 知財・法務部門
知財経営 権利、技術、ノウハウ 差別化、参入抑制、事業活用 知財・事業・研究開発部門
知財・無形資産ガバナンス 技術、ブランド、データ、人材、組織力、顧客基盤など 将来の競争優位、成長投資、企業価値 経営陣・取締役会を含む全社

知財管理は、知財・無形資産ガバナンスの基礎です。その基礎の上に、事業活用、成長投資、資源配分及び企業価値という経営上の判断を積み上げます。

なぜ知財・無形資産が取締役会の議題になるのか

知財・無形資産が取締役会の議題になる理由は、大きく四つあります。

第一に、これらへの投資が企業の将来の競争力を左右するためです。

研究開発、人材育成、ブランド構築、データ整備、顧客関係の強化などは、すぐに売上や利益を生むとは限りません。しかし、短期利益を優先して必要な投資を削減すれば、数年後の新商品、事業成長、価格競争力が失われる可能性があります。

第二に、財務諸表だけでは投資の実態を把握しにくいためです。

工場や設備への投資は、貸借対照表に資産として計上され、その金額や減価償却の状況を追跡できます。これに対して、自社で行う研究開発、人材育成、ブランド構築などの支出には、発生時に費用として処理されるものが多くあります。そのため、貸借対照表だけでは、知識、能力、顧客関係の蓄積と将来利益への寄与を把握できません。

第三に、一つの知財・無形資産だけで価値が生まれるとは限らないためです。

優れた特許技術があっても、それを製品化する人材、生産設備、品質管理、販売網、顧客からの信頼がなければ、事業上の成果には結びつきません。反対に、特許を多く保有していない企業でも、熟練者の技術、設計対応力、安定した品質、顧客との長期的な関係を組み合わせることで、高い収益力を維持している場合があります。

第四に、投資には不確実性とリスクが伴うためです。

技術の陳腐化、代替技術の登場、重要人材の退職、ノウハウの流出、顧客ニーズの変化、他社権利による制約などが考えられます。投資を始める判断だけでなく、継続、追加投資、方向転換又は撤退の判断も必要です。

これらは特許の管理件数だけでは判断できません。企業全体の経営戦略と資源配分に関わるため、取締役会の監督対象になります。

執行部門と取締役会の役割はどう違うか

知財・無形資産ガバナンスでは、経営陣・執行部門と取締役会の役割を区別します。

経営陣・執行部門は、企業の将来像と事業戦略を示し、その実現に必要な知財・無形資産を特定します。そして、投資、育成、獲得、保護、活用の計画を立て、実行し、成果と課題を報告します。

この計画は知財部門だけでは作れません。事業、研究開発、経営企画、財務、法務、IRなどが連携する必要があります。先進的な取組では、知財部門が経営企画やIRと対話し、知財活動を「何件出願したか」ではなく、「どの事業の競争力と将来収益を支えるのか」という共通の言葉で整理します。

一方、取締役会は個別施策を執行しません。経営陣が示した戦略の前提が合理的か、将来の競争優位に必要な投資が行われているか、経営資源の配分に偏りがないか、重要なリスクが過小評価されていないかを確認します。

区分 経営陣・執行部門 取締役会
基本的役割 戦略の立案・実行・報告 重要な前提と実行状況の監督
投資 投資案と資源配分を作る 戦略との整合性と優先順位を問う
リスク リスクを把握して対応する 重要リスクと対応の十分性を確認する
見直し 修正・撤退案を作る 判断基準と意思決定の妥当性を問う

すべての知財案件を取締役会へ報告する必要はありません。企業の将来像、競争優位、経営資源の配分に影響する事項を選び、経営判断として議論できる形で報告します。

経営戦略から必要な知財・無形資産を逆算する

知財・無形資産を経営に生かすためには、現在保有する技術、特許、ノウハウ、ブランド、データ、人材などを把握する必要があります。

しかし、現在の資産を棚卸しするだけでは、既存事業の延長にとどまりやすくなります。

さらに発展した取組では、将来どの市場で、どの顧客に、どのような価値を提供したいのかを先に考えます。その事業を実現するために必要な技術、ノウハウ、ブランド、データ、人材、顧客基盤を特定し、現在の状態との差を確認します。

不足する資産については、すべてを自社で育成する必要はありません。採用、共同開発、提携、ライセンス、M&Aなども選択肢になります。取締役会は、時間、費用、支配力、リスクを踏まえて、その選択が合理的かを監督します。

この関係は、次のように整理できます。

経営戦略・将来像
→ 必要な知財・無形資産
→ 投資・育成・獲得・活用
→ 顧客価値・競争優位
→ 売上・利益・成長・リスク低減
→ 将来キャッシュフロー・企業価値

知財・無形資産に金額を付けること自体を、経営の目的にする必要はありません。

取引、M&A、ライセンス、投資案件の比較など、金額による判断が必要な場面では価値評価が有用です。しかし、取締役会が最初に確認すべきなのは評価額ではなく、その資産がどの事業で使われ、どのような顧客価値を生み、将来の収益へつながるかです。

取締役会は何を問い、何を監督するか

取締役会が監督するのは、個々の権利ではなく、経営戦略から企業価値へ至る因果関係です。報告を受けるだけでなく、次の五つの領域について質問する必要があります。

領域 取締役会が確認する主な事項
戦略 どの事業と顧客価値を実現する投資か。将来像から逆算しているか
資源配分 必要な投資額、人材、期間は確保されているか。獲得方法は合理的か
事業への接続 どの商品・サービスで使われ、売上、利益率、成長、リスク低減へどうつながるか
リスク 技術の陳腐化、代替技術、他社権利、情報流出、特定人材・顧客への依存を把握しているか
見直し どの前提が崩れたら、追加投資、方向転換又は撤退を判断するか

これらを形式的なチェックリストにして終わらせてはいけません。質問によって戦略の前提を明らかにし、必要であれば資源配分や実行方法を修正することに意味があります。

取締役会へ何を報告すべきか

取締役会に特許件数や出願件数だけを報告しても、経営判断にはつながりにくいでしょう。

件数や特許評価指標が不要なのではありません。それらが、どの事業のどの競争優位を示し、どのような判断に使われるのかを説明する必要があります。

取締役会への報告は、少なくとも次の五つをつなげて構成します。

報告要素 報告する内容 取締役会が判断すること
事業・将来像 対象市場、顧客課題、実現したい事業 経営戦略との整合性
重要資産 技術、ノウハウ、ブランド、データ、人材など 競争優位の源泉
投資・実行 育成、獲得、保護、活用の施策 資源配分と優先順位
成果・リスク 事業上の変化、重要な不確実性 継続の妥当性
見直し条件 修正、追加投資、撤退の条件 次の意思決定

例えば、「特許出願が前年より10件増加した」という活動実績だけでは、その増加が企業価値にとって良いことか判断できません。

「重点事業の差別化に必要な技術群について、権利化とノウハウ管理を進めた。顧客評価は進んだが、量産人材が不足している。計画実現には追加採用又は提携が必要である」と説明すれば、活動、事業上の意味、不足する資源、次の判断がつながります。

実務では、経営方針、事業戦略、研究開発戦略と知財戦略を連動させ、重点テーマを選んで取締役会へ報告する取組も行われています。各部門の情報を、同じ価値創造の流れに沿って結びつけることが重要です。

具体的なKPIの設計と、活動指標、事業KPI、財務KPIのつなぎ方については、後続の記事で取り上げます。

ガイドライン対応で終わらせない

知財方針を作り、取締役会への報告回数を増やし、統合報告書の記載を充実させても、それだけで知財・無形資産ガバナンスが機能しているとはいえません。

形式的な対応にとどまる場合、知財方針が経営資源の配分に使われない、特許件数を報告しても取締役会で質問が出ない、年に一度だけ開示内容を確認するといった状態になりがちです。

実効的なガバナンスでは、経営戦略と知財・無形資産への投資の関係が説明され、重要な前提、投資、リスク、進捗が取締役会で議論されます。状況が変化した場合には、当初の計画を守ることよりも、追加投資、方向転換又は撤退を適切に判断することが重視されます。

また、知財部門だけが「知財の重要性」を主張するのではなく、事業、研究開発、経営企画、財務、IRが、知財・無形資産と企業価値の関係を共通の言葉で説明できる状態をつくる必要があります。

知財・無形資産ガバナンスの目的は、ガイドラインに対応した資料を作ることではありません。

見えない資産への投資について、経営陣が事業と企業価値への経路を説明し、取締役会が重要な前提と資源配分を問い、必要に応じて戦略を修正できる状態をつくることです。

まとめ――取締役会が監督するのは「価値を生む仕組み」

知財管理は、自社の技術やブランドを守り、紛争や情報流出を防ぐために欠かせません。しかし、知財・無形資産ガバナンスは、それだけにとどまりません。

将来実現したい事業から、必要な技術、ノウハウ、ブランド、データ、人材、組織力、顧客基盤を逆算し、成長投資として育成、獲得、保護、活用することが必要です。

経営陣は戦略を立案・実行し、取締役会は、その前提、資源配分、事業への接続、重要リスク及び見直しを監督します。報告では、対象事業、重要資産、投資、成果とリスク、見直し条件を一つの流れとして説明します。

重要なのは、取締役会が知財について報告を受けたという事実ではありません。その報告を基に、将来の競争力をつくる投資と経営資源の配分を議論し、必要に応じて戦略を修正できることです。

次の記事では、知財・無形資産への投資を、活動指標、事業KPI、財務KPI及び将来キャッシュフローへどのようにつなげて管理するかを取り上げます。

知財・無形資産について、M&A、組織再編、ライセンス、投資判断、事業評価などのために金額による検討が必要となる場合には、評価目的と対象範囲を明確にし、その資産と事業収益との関係を整理する必要があります。